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古事記「神武東征」— 日向から大和へ

中学校 歴史 第1学年 古典 歴史的分野 大きな転換の様子古代までの日本神話・伝承から歴史へ 目安 30 分

作者
太安万侶(撰録)/稗田阿礼(誦習)(成立:和銅5年(712年))
原作発表
712 年(奈良時代初頭(和銅5年))
出典
古事記・中巻「神武天皇の段」
底本:『古事記』(和銅5年=712年成立)中巻。本教材は岩波文庫『古事記』(倉野憲司校注、1963年)に拠る標準的訓読をもとに、中学生向けに語注と現代語訳を補った。古事記原典は著作権の保護対象外(公有)。

学習のめあて

  • 古事記中巻の冒頭「神武東征」を、原文に近い形と現代語訳の両方で読み比べる
  • 「天孫降臨」(神話)から「神武即位」(伝説/半歴史)への移行点を理解する
  • 戦前の「皇紀2600年」(1940年)と現代の見方の違いを学ぶ
  • 神話・伝説・歴史の区別という、史料批判の核心に触れる

本文

一 日向の出発

 天孫降臨から三代の時が過ぎました。ニニギノミコトの孫の鸕鷀草葺不合命うがやふきあえずのみことの子に、神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみことがおられました。後に神武天皇と呼ばれる方です。

 ある日、イワレヒコは兄の五瀬命いつせのみことと相談し、こう仰せられました。

 「どの地にいれば、平らかに、天下のまつりごとを行うことができるだろうか。東のほうへと進もうではないか

 こうして、日向ひむかの高千穂の宮を出発した一行は、豊国とよくに宇沙うさ(現在の大分県宇佐市)に着き、そこで土地の有力者にもてなされました。さらに東へ、筑紫つくし岡田宮おかだのみや(現在の福岡県)に一年、安芸あきの国(現在の広島県)に七年、吉備きび高島宮たかしまのみや(現在の岡山県)に八年、留まって、それぞれの地で勢力を蓄えてから、また東へと進みました。

二 兄の死、太陽の悟り

 一行は瀬戸内海を東に進み、ついに浪速なみはやわたり(現在の大阪湾)に達し、河内国に上陸しようとしました。

 ところがそこで、大和の有力豪族那賀須泥毘古ながすねびこ(長髓彦)の軍勢に行く手を阻まれ、激しい戦いとなりました。この戦いで、兄のイツセノミコトが矢を受けて、深い傷を負ったのです。

 兄は、苦しい息のもとで、こう言いました。

 「思えば、われわれは太陽の神(アマテラス)の子孫でありながら、いま太陽に向かって、東から西へと進んで戦った。太陽に背を向けるのは正しいが、太陽に向かって戦うのは正しくない。だから天つ神々の力をいただけず、敗れたのだ」

 兄イツセノミコトは、その傷がもとで、紀伊の男之水門おのみなとでお亡くなりになりました。

 イワレヒコは、兄の悟りを胸に、戦法を変えました。南へと迂回し、紀伊半島を回って、東から大和に攻め入る——こうすれば、太陽を背にしての戦いになります。

三 熊野の難所、八咫烏の道案内

 一行が紀伊国の熊野くまの(現在の和歌山県)に到着したとき、突如、巨大な毒気の熊が現れ、神武とその軍勢はみな、気を失って倒れてしまいました。

 そのとき、高天原のアマテラスとタカミムスビが、地上を見下ろされて、こう仰せになりました。

 「葦原中国は、いまだ騒がしい。わが御子はその地で苦しんでおられる。剣を下そう

 その夜、熊野の高倉下たかくらじという人物の夢に、神があらわれて告げました。「お前の倉の中に、霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を授ける。これを神武に届けよ」と。

 目覚めた高倉下が倉を見ると、たしかに天から降ってきた一振りの剣が立てかけてありました。彼はそれを持って、倒れているイワレヒコのもとへ走り、剣を授けました。

 その瞬間、毒気はたちまち散り、神武とその軍勢は目覚め、立ち上がりました

 しかし、熊野の山々は険しく、道は不明。一行は再び立ち往生してしまいます。すると、高天原から、もう一柱の使者が遣わされました。八咫烏やたがらす——三本足の不思議なカラスです。

 「私は、天つ神々の遣わされた使いです。大和の国へと、お導きいたします

 ヤタガラスは、空を低く飛びながら、山々の道を示し、神武の一行を、奥深い熊野から、ついに大和へと導いていったのです。

四 長髓彦との対決、即位

 大和の地に入ったイワレヒコは、ふたたび宿敵のナガスネビコと向き合いました。今度は東を背にしての戦いです。激しい戦いの末、神武はナガスネビコを破り、大和を平定しました。

 神武は、橿原かしはらの地(現在の奈良県橿原市)に、立派な宮を建てて、ここに即位なさいました。これが、古事記・日本書紀の伝える「神武天皇の即位」、つまり日本の天皇の始まりとされる出来事です。

『日本書紀』によれば、この即位の年は辛酉年正月元日。後の暦法計算で紀元前660年2月11日とされています。これが、明治以降の「皇紀」の元年、現在の「建国記念の日」の根拠とされる日付です。

物語を読み解く ① — 神話から伝説、伝説から歴史へ

古事記の物語は、本段「神武東征」を境に、その「リアリティの度合い」を少しずつ変えていきます。

区分 範囲 特徴
純粋な神話 上巻全体(天の岩戸〜天孫降臨) 主人公は神々。場所は天上・出雲・高千穂など神話的
神話と伝説の境界 本段「神武東征」 主人公は「神の子孫だが地上の人間」。場所は具体的な地名
半伝説的歴史 中巻(神武〜応神天皇) 天皇の系譜と業績、しかし伝説の色彩が強い
歴史的色彩 下巻(仁徳天皇〜推古天皇) 中国の文献などとも対応する、史実とおおむね認められる時代

古事記は、こうやって神話の世界から、しだいに現実の歴史へと、滑らかに移っていく構造を持っています。これは編纂者の見事な物語芸術ですが、同時に「神話と歴史を区別しない」という危うさも持っています。本段は、その「境界」の物語として、重要な意味を持つのです。

歴史の窓 — 皇紀2600年と紀元節

明治期 — 皇紀の制定

明治政府は、近代国家としての日本の歴史を整理する際に、『日本書紀』の年代をそのまま採用して、神武天皇の即位を紀元前660年と定めました。これを元年とする紀年法を「皇紀(こうき)」といい、明治5年(1872年)から、公式に用いられました。

同時に、神武即位の日(旧暦正月元日 → 新暦2月11日)を「紀元節(きげんせつ)」として、年初の重要な祝日に定めました。学校では、紀元節の朝、校長が「神武天皇の御事業」を語り、生徒たちはこれを敬意をもって聞くのが恒例でした。

昭和15年(1940年)— 皇紀2600年

1940年(昭和15年)は、皇紀の元年(紀元前660年)から数えて2600年にあたる年でした。日本政府は、これを国家の最大の祝典として位置づけ、年間を通じて壮大な記念行事を展開しました。

  • 11月10日:宮城前広場で「紀元二千六百年式典」開催(参列5万人)
  • 記念切手・記念硬貨の発行
  • 「紀元二千六百年奉祝歌」の制定(森義孝作詞、信時潔作曲)
  • 全国の学校・神社での記念式典

この祝典は、戦前日本の「皇国史観」の頂点として記憶されるべきものです。そして、この祝典の翌年、1941年12月、日本は太平洋戦争に突入しました。

戦後 — 紀元節廃止と「建国記念の日」

1945年(昭和20年)8月15日の敗戦のあと、GHQの神道指令(1945年12月)によって、国家神道は解体されました。1948年(昭和23年)に祝日法が制定された際、「紀元節」は廃止されました。「神話に基づく祝日は、戦後の民主主義国家にふさわしくない」というのが、その理由でした。

ところが、1966年(昭和41年)、政府は「建国記念の日」として、2月11日を国民の祝日とすることを決定しました。「紀元節の復活」という強い批判のなかでの制定で、現在も賛否両論があります。

大切な姿勢 2月11日「建国記念の日」をめぐる議論は、「神話を国家の起源にしてよいか」という根本的な問いを含んでいます。本段「神武東征」を、ただ「面白い物語」として読むだけでなく、「この物語が後世に何を引き起こしたか」を考えることが、現代の歴史学習の中心となります。

歴史の窓 — 神話の年代と現実の年代

古事記の物語年代と、考古学・文献史学が明らかにする現実の年代は、大きく食い違っています。

出来事 『日本書紀』の年代 考古学・文献史学の推定
神武天皇即位 紀元前660年 史実とは認めがたい。実在性も疑問
卑弥呼の女王国(魏志倭人伝) (記述なし) 3世紀(239年に魏に遣使)。実在
大和朝廷の確立 神武以来連綿 5〜6世紀(雄略・継体天皇あたり)
古事記の編纂 712年 712年(史実)

『日本書紀』の編纂者たちは、なぜ神武即位を「紀元前660年」と算定したのでしょうか。これには、中国の讖緯説(しんいせつ)の影響があるとされます。中国の干支の「辛酉年」が革命の年とされる伝統に従い、それを古い時代に投影した結果、紀元前660年という極めて古い年代になったと考えられています。これは、神武天皇という人物の実在を示すものではなく、後世の編纂者の年代操作の結果なのです。

関連する古事記の物語

  • 天孫降臨 — 本段の直前。ニニギノミコトが地上に降りる
  • 国譲り — オオクニヌシが葦原中国を譲る
  • 因幡の白兎 — オオクニヌシの若き日の物語
  • 八岐大蛇 — スサノオの英雄譚
  • 天の岩戸 — 高天原の中心神話
  • ヤマトタケル東征(古事記中巻、未収録)— 本段の続き。第12代景行天皇の皇子ヤマトタケルの東国遠征

古事記は、ここから先、半伝説的な歴代天皇の物語へと続いていきます。神話の長い旅は、いったんここで人間の世界へと帰着し、そこから天皇制の歴史譚として展開していくのです。神話の物語と歴史の物語、その境界に立つのが、この「神武東征」の段なのです。

語句の意味

各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について

  • 神武天皇(じんむてんのう) K 古事記・日本書紀によれば、日本の初代天皇。ニニギノミコトの曾孫。古事記での名は「神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと)」。日本書紀によれば、紀元前660年に橿原で即位したとされるが、これは後世の年代修正で、史実とは認めがたい。
  • 神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと) K 神武天皇の若い頃の名。「神」は神聖の意、「倭(やまと)」は大和、「伊波礼毘古(いわれびこ)」は奈良県磐余(いわれ)の地の男子の意。
  • 五瀬命(いつせのみこと) K イワレヒコの兄。東征の途中、河内で戦傷を受けて死ぬ。
  • 日向(ひむか)/日向国 K 現在の宮崎県にあたる古代の国。天孫降臨の地である高千穂を含む。神武の出発地。
  • 宇沙(うさ) K 現在の大分県宇佐市。九州を東に出る最初の中継地。
  • 安芸(あき)/安芸国 K 現在の広島県西部。瀬戸内海を東に進む途中の寄港地。
  • 吉備(きび)/吉備国 K 現在の岡山県あたりの古代の有力国。神武はここに数年留まったとされる。
  • 浪速の渡(なみはやのわたり) K 現在の大阪湾。神武が河内に上陸しようとした地。
  • 那賀須泥毘古(ながすねびこ)/長髓彦 K 河内・大和の有力豪族。神武の最大の敵対者として描かれる。
  • 八咫烏(やたがらす) K 高天原から派遣された三本足のカラス。神武一行を熊野から大和へと道案内する。後に「日本サッカー協会のシンボル」としても知られる。古代の太陽信仰と関係するともいわれる。
  • 橿原(かしはら) K 現在の奈良県橿原市。神武がここに宮を建てて即位したとされる。明治以降、ここに「橿原神宮」が建てられ、神武天皇を祭神とする。
  • 皇紀(こうき) K 神武天皇即位の年(『日本書紀』によれば紀元前660年)を元年とする紀年法。明治政府が制定。1940年(昭和15年)は「皇紀2600年」として国を挙げての記念行事が行われた。戦後、公的には使われなくなった。
  • 紀元節(きげんせつ) K 神武天皇の即位日(旧暦正月元日 → 新暦2月11日)を祝日とした、戦前の祝日。1948年に廃止されたが、1966年に「建国記念の日」として復活した。「神話の日付」を国家の祝日とすることへの議論は今も続く。
  • 久米歌(くめうた) K 神武東征の場面で神武軍の兵士たち(久米氏族)が歌ったとされる戦闘の歌。古事記・日本書紀に収録されている、日本最古級の歌謡。
  • 大和(やまと) K 現在の奈良県あたりの古代の国。古代日本の政治中心地で、大和朝廷の本拠地となる。「日本」を指す古い呼び名「大和の国」の語源。

考えてみよう

  1. 神武の一行は、日向(宮崎県)を出発して、どんなルートで大和(奈良県)にたどり着きましたか。本文の地名を地図に書き込んで追ってみましょう。
  2. 兄の五瀬命が戦傷を受けて死ぬ場面で、神武は「太陽の方向(東)から太陽の神の子孫である自分が攻めるのは、太陽に逆らうことになる。回り込もう」と気づきます。古代の人々の太陽崇拝が、どう物語に反映されているでしょうか。
  3. 熊野で道に迷った神武一行を、高天原から派遣された八咫烏が大和まで導きます。「天上の神々が地上の旅を助ける」という構図は、何を象徴していると読めるでしょうか。
  4. 「神武東征」を、(1)神話として、(2)何らかの史実の反映として、(3)戦前の天皇制正統化の根拠として、それぞれどう読むことができるか整理してみましょう。
  5. 明治政府は『日本書紀』の年代をそのまま採用して、神武即位を紀元前660年と定めました。1940年は「皇紀2600年」として国を挙げての祝賀がありました。なぜ明治政府は神話年代を国家の紀年法に採用したのか、考えてみましょう。
  6. 戦後、皇紀は公的には使われなくなりました。一方、2月11日は「紀元節」から「建国記念の日」と名を変えて、国民の祝日として残っています。「神話を国家の起源にする」ことについて、現代の私たちはどう考えるべきか、自分の意見を書きましょう。
  7. 神武東征の物語と、ヤマトタケルの東征伝説と、卑弥呼の女王国(魏志倭人伝)とを並べたとき、それぞれが「神話/伝説/半歴史」の異なる位相にあることが見えてきます。考古学・文献史学はどう区別しているでしょうか。

指導要領との対応

このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」歴史 第1学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。

  • 歴史 B(1)ア — 古代国家の形成 — 神話から伝説、伝説から歴史へ
  • 歴史 B(1)イ — 古代の人々の生活と信仰
  • 歴史 B(2) — 古代の文化(神武紀年・皇紀の問題)

※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。

指導案 教員向け・授業展開の例

古事記中巻の冒頭。「天孫降臨」(神話)の三代後、ニニギノミコトの曾孫イワレヒコが日向(宮崎)から東進し、橿原(奈良)で即位する物語。「神話」から「伝説」「半歴史」への移行点であり、戦前は「皇紀の起点」「日本国の建国神話」として最重要視された段。本教材は、(1)物語としての面白さ、(2)神話と歴史の区別、(3)戦前の皇紀紀年法および紀元節の問題、を順に扱う、史料批判教育の中核となる教材。古事記神話五部作(天の岩戸〜天孫降臨)の続編、神話から「天皇の物語」への橋。

授業時数
2 単位時間(物語と地理 1 時限+皇紀問題と現代との対話 1 時限)
準備
古事記中巻「神武天皇の段」の原文プリント、神武東征ルート図(宮崎・大分・広島・岡山・大阪・和歌山・奈良の地名)、1940年「皇紀2600年」の記念行事の写真資料(紀元二千六百年式典など)、1948年「紀元節」廃止と1966年「建国記念の日」制定の議事録抜粋、橿原神宮(明治23年創建)の写真資料、卑弥呼(魏志倭人伝)と神武天皇の年代比較表

指導目標

  • 神武東征の物語を、原文と現代語訳の両方で読む
  • 日向 → 宇沙 → 安芸 → 吉備 → 浪速 → 熊野 → 大和 のルートを地図でたどる
  • 戦前の皇紀紀年法(1940年皇紀2600年)と現代の歴史学の見方を対比する
  • 神話・伝説・歴史の区別を理解する
  • 2月11日「建国記念の日」の歴史的経緯を学ぶ

授業の流れ

  1. 1時間目(物語と地理) 古事記五部作の流れを復習し、本段が神話から「天皇の時代」への橋であることを確認。本教材を音読し、ルートを大きな地図に書き込みながら追う(日向→宇沙→安芸→吉備→浪速→熊野→大和)。八咫烏・久米歌などの細部にも触れる。
  2. 2時間目(皇紀と現代) 1940年「皇紀2600年」の写真資料を見て、神話年代が国家の祝典に直結していたことを実感。1948年の祝日法で「紀元節」が廃止された経緯を確認。1966年に「建国記念の日」として復活した政治的背景を共有。「神話を国家の起源にする」ことの妥当性を討論。卑弥呼(3世紀の魏志倭人伝に登場する実在性の高い人物)と神武天皇(紀元前660年と算定された神話上の人物)の年代の隔たりも確認。

発問例・議論のポイント

  • 神武天皇が即位したとされる紀元前660年は、考古学的には縄文時代の終わり頃にあたります。実在の天皇制が確立するのは早くても5〜6世紀(雄略天皇・継体天皇あたり)と考えられます。「神話の年代」と「考古学の年代」の隔たりを、どう理解すればよいでしょうか。
  • 1940年(昭和15年)の「皇紀2600年」は、国を挙げての記念行事として行われ、運動会や歌、紀念切手・紀念硬貨も発行されました。これが翌1941年の太平洋戦争開戦の前年にあたることを、どう考えればよいでしょうか。
  • 2月11日「建国記念の日」をめぐっては、1966年の制定以来、賛否両論があります。「神話を国家の起源にしてよいか」「皇紀の復活ではないか」という批判と、「日本の建国を祝う日があってもよい」という賛成意見。あなたの考えを述べましょう。
  • 八咫烏(三本足のカラス)は、現代でも日本サッカー協会のシンボルマークとして使われています。「神話のシンボル」が現代社会で生き続ける例として、他にどんなものがあるでしょうか。
  • 古事記が「神武東征」を物語の重要な節目に置いた理由は何でしょう。物語を編纂した奈良時代の人々(編纂は712年完成)が、自らの天皇制をどう正統化したかったのかを考えてみましょう。

発展課題

  • 古事記中巻のヤマトタケル東征伝説と本段を比較し、「神話」「伝説」の連続性を捉える。
  • 魏志倭人伝(3世紀後半に書かれた、卑弥呼の女王国の記録)を読み、文献史学の手法を学ぶ。
  • 橿原神宮(奈良県橿原市)の歴史を調べ、明治23年(1890年)の創建の政治的背景を探る。
  • 1940年「皇紀2600年」関連の写真・歌・記念碑などを資料として集めてみる。
  • 諸外国の「建国記念日」(例えばアメリカ7月4日、フランス7月14日)と比較し、それぞれが何を記念しているかを調べる。

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出典・ライセンス

  • 原文: 太安万侶(撰録)/稗田阿礼(誦習)「古事記「神武東征」— 日向から大和へ」(712年)
  • 入力テキスト: 古事記・中巻「神武天皇の段」 (底本:『古事記』(和銅5年=712年成立)中巻。本教材は岩波文庫『古事記』(倉野憲司校注、1963年)に拠る標準的訓読をもとに、中学生向けに語注と現代語訳を補った。古事記原典は著作権の保護対象外(公有)。)
  • 原文の権利: パブリックドメイン
  • 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors