古事記「神武東征」— 日向から大和へ

一 日向の出発

 天孫降臨から三代の時が過ぎました。ニニギノミコトの孫の鸕鷀草葺不合命うがやふきあえずのみことの子に、神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみことがおられました。後に神武天皇と呼ばれる方です。

 ある日、イワレヒコは兄の五瀬命いつせのみことと相談し、こう仰せられました。

 「どの地にいれば、平らかに、天下のまつりごとを行うことができるだろうか。東のほうへと進もうではないか

 こうして、日向ひむかの高千穂の宮を出発した一行は、豊国とよくに宇沙うさ(現在の大分県宇佐市)に着き、そこで土地の有力者にもてなされました。さらに東へ、筑紫つくし岡田宮おかだのみや(現在の福岡県)に一年、安芸あきの国(現在の広島県)に七年、吉備きび高島宮たかしまのみや(現在の岡山県)に八年、留まって、それぞれの地で勢力を蓄えてから、また東へと進みました。

二 兄の死、太陽の悟り

 一行は瀬戸内海を東に進み、ついに浪速なみはやわたり(現在の大阪湾)に達し、河内国に上陸しようとしました。

 ところがそこで、大和の有力豪族那賀須泥毘古ながすねびこ(長髓彦)の軍勢に行く手を阻まれ、激しい戦いとなりました。この戦いで、兄のイツセノミコトが矢を受けて、深い傷を負ったのです。

 兄は、苦しい息のもとで、こう言いました。

 「思えば、われわれは太陽の神(アマテラス)の子孫でありながら、いま太陽に向かって、東から西へと進んで戦った。太陽に背を向けるのは正しいが、太陽に向かって戦うのは正しくない。だから天つ神々の力をいただけず、敗れたのだ」

 兄イツセノミコトは、その傷がもとで、紀伊の男之水門おのみなとでお亡くなりになりました。

 イワレヒコは、兄の悟りを胸に、戦法を変えました。南へと迂回し、紀伊半島を回って、東から大和に攻め入る——こうすれば、太陽を背にしての戦いになります。

三 熊野の難所、八咫烏の道案内

 一行が紀伊国の熊野くまの(現在の和歌山県)に到着したとき、突如、巨大な毒気の熊が現れ、神武とその軍勢はみな、気を失って倒れてしまいました。

 そのとき、高天原のアマテラスとタカミムスビが、地上を見下ろされて、こう仰せになりました。

 「葦原中国は、いまだ騒がしい。わが御子はその地で苦しんでおられる。剣を下そう

 その夜、熊野の高倉下たかくらじという人物の夢に、神があらわれて告げました。「お前の倉の中に、霊剣(ふつのみたまのつるぎ)を授ける。これを神武に届けよ」と。

 目覚めた高倉下が倉を見ると、たしかに天から降ってきた一振りの剣が立てかけてありました。彼はそれを持って、倒れているイワレヒコのもとへ走り、剣を授けました。

 その瞬間、毒気はたちまち散り、神武とその軍勢は目覚め、立ち上がりました

 しかし、熊野の山々は険しく、道は不明。一行は再び立ち往生してしまいます。すると、高天原から、もう一柱の使者が遣わされました。八咫烏やたがらす——三本足の不思議なカラスです。

 「私は、天つ神々の遣わされた使いです。大和の国へと、お導きいたします

 ヤタガラスは、空を低く飛びながら、山々の道を示し、神武の一行を、奥深い熊野から、ついに大和へと導いていったのです。

四 長髓彦との対決、即位

 大和の地に入ったイワレヒコは、ふたたび宿敵のナガスネビコと向き合いました。今度は東を背にしての戦いです。激しい戦いの末、神武はナガスネビコを破り、大和を平定しました。

 神武は、橿原かしはらの地(現在の奈良県橿原市)に、立派な宮を建てて、ここに即位なさいました。これが、古事記・日本書紀の伝える「神武天皇の即位」、つまり日本の天皇の始まりとされる出来事です。

『日本書紀』によれば、この即位の年は辛酉年正月元日。後の暦法計算で紀元前660年2月11日とされています。これが、明治以降の「皇紀」の元年、現在の「建国記念の日」の根拠とされる日付です。

物語を読み解く ① — 神話から伝説、伝説から歴史へ

古事記の物語は、本段「神武東征」を境に、その「リアリティの度合い」を少しずつ変えていきます。

区分 範囲 特徴
純粋な神話 上巻全体(天の岩戸〜天孫降臨) 主人公は神々。場所は天上・出雲・高千穂など神話的
神話と伝説の境界 本段「神武東征」 主人公は「神の子孫だが地上の人間」。場所は具体的な地名
半伝説的歴史 中巻(神武〜応神天皇) 天皇の系譜と業績、しかし伝説の色彩が強い
歴史的色彩 下巻(仁徳天皇〜推古天皇) 中国の文献などとも対応する、史実とおおむね認められる時代

古事記は、こうやって神話の世界から、しだいに現実の歴史へと、滑らかに移っていく構造を持っています。これは編纂者の見事な物語芸術ですが、同時に「神話と歴史を区別しない」という危うさも持っています。本段は、その「境界」の物語として、重要な意味を持つのです。

歴史の窓 — 皇紀2600年と紀元節

明治期 — 皇紀の制定

明治政府は、近代国家としての日本の歴史を整理する際に、『日本書紀』の年代をそのまま採用して、神武天皇の即位を紀元前660年と定めました。これを元年とする紀年法を「皇紀(こうき)」といい、明治5年(1872年)から、公式に用いられました。

同時に、神武即位の日(旧暦正月元日 → 新暦2月11日)を「紀元節(きげんせつ)」として、年初の重要な祝日に定めました。学校では、紀元節の朝、校長が「神武天皇の御事業」を語り、生徒たちはこれを敬意をもって聞くのが恒例でした。

昭和15年(1940年)— 皇紀2600年

1940年(昭和15年)は、皇紀の元年(紀元前660年)から数えて2600年にあたる年でした。日本政府は、これを国家の最大の祝典として位置づけ、年間を通じて壮大な記念行事を展開しました。

  • 11月10日:宮城前広場で「紀元二千六百年式典」開催(参列5万人)
  • 記念切手・記念硬貨の発行
  • 「紀元二千六百年奉祝歌」の制定(森義孝作詞、信時潔作曲)
  • 全国の学校・神社での記念式典

この祝典は、戦前日本の「皇国史観」の頂点として記憶されるべきものです。そして、この祝典の翌年、1941年12月、日本は太平洋戦争に突入しました。

戦後 — 紀元節廃止と「建国記念の日」

1945年(昭和20年)8月15日の敗戦のあと、GHQの神道指令(1945年12月)によって、国家神道は解体されました。1948年(昭和23年)に祝日法が制定された際、「紀元節」は廃止されました。「神話に基づく祝日は、戦後の民主主義国家にふさわしくない」というのが、その理由でした。

ところが、1966年(昭和41年)、政府は「建国記念の日」として、2月11日を国民の祝日とすることを決定しました。「紀元節の復活」という強い批判のなかでの制定で、現在も賛否両論があります。

大切な姿勢 2月11日「建国記念の日」をめぐる議論は、「神話を国家の起源にしてよいか」という根本的な問いを含んでいます。本段「神武東征」を、ただ「面白い物語」として読むだけでなく、「この物語が後世に何を引き起こしたか」を考えることが、現代の歴史学習の中心となります。

歴史の窓 — 神話の年代と現実の年代

古事記の物語年代と、考古学・文献史学が明らかにする現実の年代は、大きく食い違っています。

出来事 『日本書紀』の年代 考古学・文献史学の推定
神武天皇即位 紀元前660年 史実とは認めがたい。実在性も疑問
卑弥呼の女王国(魏志倭人伝) (記述なし) 3世紀(239年に魏に遣使)。実在
大和朝廷の確立 神武以来連綿 5〜6世紀(雄略・継体天皇あたり)
古事記の編纂 712年 712年(史実)

『日本書紀』の編纂者たちは、なぜ神武即位を「紀元前660年」と算定したのでしょうか。これには、中国の讖緯説(しんいせつ)の影響があるとされます。中国の干支の「辛酉年」が革命の年とされる伝統に従い、それを古い時代に投影した結果、紀元前660年という極めて古い年代になったと考えられています。これは、神武天皇という人物の実在を示すものではなく、後世の編纂者の年代操作の結果なのです。

関連する古事記の物語

  • 天孫降臨 — 本段の直前。ニニギノミコトが地上に降りる
  • 国譲り — オオクニヌシが葦原中国を譲る
  • 因幡の白兎 — オオクニヌシの若き日の物語
  • 八岐大蛇 — スサノオの英雄譚
  • 天の岩戸 — 高天原の中心神話
  • ヤマトタケル東征(古事記中巻、未収録)— 本段の続き。第12代景行天皇の皇子ヤマトタケルの東国遠征

古事記は、ここから先、半伝説的な歴代天皇の物語へと続いていきます。神話の長い旅は、いったんここで人間の世界へと帰着し、そこから天皇制の歴史譚として展開していくのです。神話の物語と歴史の物語、その境界に立つのが、この「神武東征」の段なのです。