学問のすゝめ・初編(抜粋)
中学校 公民 第3学年 近代日本の人権思想民主主義の発展 目安 25 分
学習のめあて
- 「天は人の上に人を造らず…」の有名な書き出しが何を主張しているかを読み取る
- 福沢の言う「学問」が、現代の私たちが思う「勉強」とどこが同じで、どこが違うかを考える
- 明治初期の文章スタイル(漢文調・候文の名残)に触れ、近代日本の思想がどう書かれていたかを体感する
本文
原文(抜粋)— 初編 冒頭
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。
されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。
…身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。
学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。…されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
— 福沢諭吉『学問のすゝめ』初編(明治5年・1872年)より
現代語訳・解説
「人はみな平等につくられている」
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」と言われている。つまり、天が人間を生み出すときには、すべての人は同じ立場で、生まれつき身分の高い低いというちがいはない。万物のなかでもっとも尊い存在として、その体と心のはたらきで世のあらゆるものを利用し、衣食住をまかない、自由自在に、たがいに邪魔をしあうことなく、それぞれが安らかにこの世を渡っていけるように造られている——これが(人間の存在)本来の意味だ。
「では、現実の差はなぜ生まれるのか?」
けれども、今この人間世界を見わたしてみると、賢い人もいれば愚かな人もいる、貧しい人もいれば豊かな人もいる、身分の高い人もいれば低い人もいる。その差はまるで雲と泥ほどもあるではないか。なぜか? 答えははっきりしている。『実語教』にも「人は学ばなければ知識がない。知識がない者は愚かな者だ」とある。だから、賢人と愚人の差は「学ぶか学ばないか」によってできるのだ。
「だから学問が必要だ。ただし——」
その「学問」とは、難しい文字を覚えたり、古い漢文を読んだり、和歌や詩を作るような、実生活には役に立たない文学のことではない。今、努めるべきはもっと日常に近い「実学」だ。手紙の書き方、そろばん、簿記、はかりの使い方……そして地理学・物理学(究理学)・歴史・経済学・道徳学(修身学)。これらを学んでこそ、士農工商それぞれが自分の役目を果たし、自分も、家も、そして国も、独立した存在になれるのだ。
歴史の窓 — 1872年の日本
『学問のすゝめ』初編が出たのは、明治5年(1872年)。徳川幕府が倒れて4年、廃藩置県(藩を廃止して県をつくる大改革)の翌年です。日本の人々はそれまで生まれた身分(武士・農民・町人・えた・ひにん)で人生が決まる社会に生きてきました。「上下の別」が当たり前だったのです。
そこに、福沢諭吉は 「人はみな平等につくられている」 と高らかに宣言しました。これは、アメリカ独立宣言(1776年)の "all men are created equal"(すべての人は平等に造られている)を念頭に置いた、当時としては革命的な思想でした。
そしてその上で、福沢は冷徹に問います——「では、現実の差はなぜ生まれるのか?」 答えは、「学ぶか、学ばないか」。すなわち、生まれは平等であっても、努力次第で人生は変わる。だから今こそ実用的な学問(実学)を学べ、というメッセージです。
明治の人々は、この本に勇気づけられました。300万部以上売れたとされ、当時の人口の1割が読んだ計算になります。日本の近代化が、武力ではなく 「学ぶ自由」 の思想から始まったことを、この一冊は今に伝えています。
現代へのつながり — 日本国憲法と『学問のすゝめ』
『学問のすゝめ』が説いた「人はみな平等」の思想は、戦後の 日本国憲法(1947年施行)に流れこみました:
- 第14条(法の下の平等):「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により…差別されない」
- 第26条(教育を受ける権利):「すべて国民は、…ひとしく教育を受ける権利を有する」
明治の福沢から、戦後の憲法へ。「学ぶ自由」と「機会の平等」は、日本の民主主義を支える二つの柱として受け継がれています。
語句の意味
- 福沢諭吉(ふくざわ・ゆきち) 1834–1901。豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の下級武士の子。緒方洪庵の適塾で蘭学を学び、後に英語を独学。3度の渡欧米経験を生かして、慶應義塾を創立。『西洋事情』『学問のすゝめ』『文明論之概略』など、近代日本の思想に最も大きな影響を与えた人物の一人。
- 学問のすゝめ 1872年(明治5年)から1876年までに17編にわたって刊行された啓蒙書。初編は約30万部の大ベストセラーとなった。当時の日本の総人口は約3,300万人、識字率も今より低かったから、これは驚異的な普及率。
- 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」 福沢の代名詞的な書き出し。「と言えり」とあるように、これは福沢自身の創作ではなく、アメリカ独立宣言などからの翻案・引用とされる。実際、アメリカ独立宣言の "all men are created equal" がモデル。
- 万物の霊 あらゆる生き物の中で最も尊い存在、つまり人間のこと。
- 雲と泥との相違 天と地ほどの大きな違い。「雲泥の差」という表現の原典。
- 実語教(じつごきょう) 平安末期〜江戸時代に広く使われた、子ども向けの教訓書。「山高きが故に貴からず、樹あるをもって貴しとす」など、暗唱で学ばれた。
- 力役(りきえき) 体を使う労働。
- 「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」 富や地位は生まれで決まるのではなく、努力によって得るものだ、という思想。
- 実学(じつがく) 福沢の鍵概念。和歌や漢学のような「実のない学問」ではなく、地理・物理・歴史・経済・道徳など、日常生活と社会で役に立つ学問のこと。
- 究理学(きゅうりがく) 物理学のこと。「物事の理を究める学」の意。
- 修身学(しゅうしんがく) 倫理学・道徳学。「身を修める学」の意。
- 一身独立して一国独立す 福沢のもう一つの代名詞的フレーズ。一人ひとりが知識と判断力をもって自立しないと、国全体も独立した存在になれない、という考え。
考えてみよう
- 「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり」— このフレーズで、福沢は人間がもともと持っているどんな性質を主張していますか。
- 「されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり…雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや」と問いを立てた後、福沢はその答えを何だと言っていますか。本文の言葉を引いて答えましょう。
- 福沢は、和歌や難しい漢文を読むことを「実のない学問」と呼びます。彼が代わりに勧めたのはどんな学問ですか。本文で挙げられている具体例を3つ以上書き出しましょう。
- 「一身独立して一国独立する」とは、現代の言葉に直すと、どのような意味でしょう。あなたの言葉で書きましょう。
- アメリカ独立宣言(1776年)の「all men are created equal」(すべての人は平等に造られている)は、福沢の冒頭の元になったとされます。福沢がこの思想を「されば天より人を生ずるには…生まれながら貴賤上下の差別なく」と日本語で言い換えたとき、彼はどんな読者を念頭においていたと思いますか。
- この文章が書かれた1872年(明治5年)は、徳川幕府が倒れて4年後、廃藩置県の翌年です。当時の日本社会の様子と、福沢の主張がどう響いたかを想像して書きましょう。
指導要領との対応
このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」公民 第3学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。
- 公民 A(1) — 個人の尊重と日本国憲法、民主主義の発展
- 公民 A(2) — 民主主義と政治参加、人権の歴史
- 歴史 (5) — 近代日本のあゆみ — 文明開化、明治の思想
※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。