後世への最大遺物(抜粋)

中学校 公民 第3学年 近代日本の思想人生と公共 目安 30 分

作者
内村鑑三(1861–1930)
原作発表
1894 年(明治27年7月、箱根夏期学校での講演)
出典
青空文庫
底本:「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、岩波書店、1946年10月10日初版発行(1994年8月6日第64刷を入力に使用)

学習のめあて

  • 内村が問いを立てた「人は後世に何を遺すべきか」という問いを、自分のことに引きつけて考える
  • 金・事業・思想・教育の順に内村が選択肢を吟味していく論の運びを追う
  • 「勇ましい高尚なる生涯」という結論が、なぜ「誰にでも遺せる遺物」だと言えるかを理解する

本文

講演の背景

明治27年(1894年)7月、相州箱根(神奈川県箱根)で開かれた キリスト教徒第六回夏期学校。集まったのは、これからの日本を担う若いキリスト教徒の青年たちでした。彼らを前にして、内村鑑三(うちむら・かんぞう)は熱を込めて語りかけました——「われわれは後世に何を遺すべきか」と。

この年、日清戦争が始まり、日本は本格的に近代国家として国際舞台に踏み出す節目にありました。内村自身は、「不敬事件」(教育勅語への礼拝を拒んで一高の職を失った)からわずか3年後で、社会的にはまだ厳しい立場にありました。それでも彼は、青年たちに 「人生で本当に意味あるものは何か」 を問いかけたのです。

講演は『湖畔論集』として同年11月に出版され、その後何度も版を重ねて、今に至るまで読み継がれています。

原文(抜粋)— 結論部分

 それならば最大遺物とはなんであるか。私が考えてみますに人間が後世に遺すことのできる、ソウしてこれは誰にも遺すことのできるところの遺物で、利益ばかりあって害のない遺物がある。それは何であるかならば勇ましい高尚なる生涯であると思います。これが本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。

 しかして高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここで申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。すなわちこの世の中はこれはけっして悪魔が支配する世の中にあらずして、神が支配する世の中であるということを信ずることである。失望の世の中にあらずして、希望の世の中であることを信ずることである。この世の中は悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという考えをわれわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物としてこの世を去るということであります。その遺物は誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。

— 内村鑑三「後世への最大遺物」(明治27年・1894年)より

論の運び — 5つの候補を吟味する

内村は講演の中で、後世に遺すべき遺物の候補を順に取り上げ、一つひとつ吟味しています:

候補 内村の検討
① 金(お金) 商業の中で正しく稼ぎ、正しく使えば、立派な遺物。しかし悪用されると害にもなる。誰にでも遺せるとは限らない。
② 事業 学校・病院・鉄道など、社会の役に立つもの。しかし才能と機会の両方を必要とし、誰でもできるわけではない。
③ 思想・著作 パウロの書簡、カーライルの本のように、後世に強く影響する。しかしそれを書ける人はきわめて少数。
④ 教育 人を育てて未来に伝える、すばらしい遺物。しかしこれも教師という立場が必要。
⑤ 勇ましい高尚なる生涯 これだけは誰にも遺せる。地位も才能も問わず、すべての人が自分の生き方そのものを後世への贈物にすることができる。

つまり、内村の主張は「すべての人が、どこにいても、自分の生き方そのものを社会への贈り物にできる」という、根本的に民主的・平等な思想なのです。

カーライルの『フランス革命史』のエピソード

講演の中で内村はカーライル(1795–1881)の有名な逸話を引きます——

カーライルが何十年もかけて書き上げた『フランス革命史』の原稿を、友人に貸して読んでもらった。友人の家の女中が、それを反故(はんご)紙だと思って、暖炉の火付けに使ってしまった。原稿は灰になった。

カーライルは10日ほどぼんやりとして何もできなかった。けれども、彼はやがて自分にこう言ったというのです。

トーマス・カーライルよ、汝(なんじ)は愚人である。汝の書いた『革命史』はソンナに貴いものではない。第一に貴いのは、汝がこの艱難(かんなん)に忍んで、ふたたび筆を執ってそれを書き直すことである。それが汝の本当にエライところである

そうしてカーライルは、もう一度書き直したのです。

内村は言います——「カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである」と。残されたのは本ですが、本当の遺物は、その本を取り戻すために挫折から立ち直ったその生き方そのものだった。

現代へのつながり — 「生き方」をめぐる問い

「人は後世に何を遺すべきか」という内村の問いは、当時から100年以上たった今も、わたしたちに新鮮に響きます。SNSの時代、わたしたちは 「フォロワー数」「いいねの数」 といった指標で、無意識のうちに後世への影響力を測ろうとしているかもしれません。けれど内村は、それより根本的なところで、人は 「日々をどう生きるか」でこそ未来に何かを遺している、と言うのです。

この講演が今も読み継がれているのは、「地位も才能も持たない自分でも、何かを社会に遺せる」という強い励ましが、そこにあるからかもしれません。中学校公民は、「個人の尊重と社会への参加」を学ぶ場でもあります。内村の問いは、そのもっとも根本的な問いかけとして響き続けています。

語句の意味

  • 内村鑑三(うちむら・かんぞう) 1861–1930。札幌農学校(現・北海道大学)でクラーク博士の影響を受けキリスト教徒となる。米国留学を経て、無教会主義というキリスト教の独自の立場を確立。「不敬事件」で職を失った後は文筆と講演で活動。代表的日本人として欧米にも知られる思想家。
  • 後世(こうせい) 後の世。自分が死んだあとの時代。
  • 遺物(いぶつ) 後の世に遺すもの、贈り物。「故人の遺物(形見)」とは違って、ここでは積極的に「世に残す価値あるもの」の意。
  • 夏期学校 明治期のキリスト教徒たちが、夏の休暇に箱根や軽井沢などで開いた合宿型の学習会。本講演は明治27年7月、箱根第六回夏期学校で行われた。
  • 千載青史(せんざいせいし)に列する 千年の歴史書(青史)に名を残す。歴史に名を残す、永久に記憶される、の意。
  • 高尚(こうしょう) 気高く、品位のあること。
  • 勇ましい 困難に屈することなく、敢然と立ち向かう様子。
  • トーマス・カーライル Thomas Carlyle(1795–1881)。スコットランド出身の歴史家・思想家。代表作『フランス革命史』『英雄崇拝論』。内村の敬愛した人物。
  • 『フランス革命史』 カーライルが1837年に出版した3巻本の歴史書。生き生きとした文体で18世紀フランス革命を描いた。本講演ではこの本の原稿が一度焼失したエピソードが引かれる。
  • パウロの書翰(しょかん) 新約聖書に収められたパウロ(紀元1世紀のキリスト教伝道者)の手紙。「ローマの信徒への手紙」「コリントの信徒への手紙」など。
  • クロムウェル Oliver Cromwell(1599–1658)。イングランドの政治家・軍人。清教徒革命を主導し共和制を樹立した人物。

考えてみよう

  1. 内村は講演で、「人は後世に何を遺すべきか」という大きな問いを立てます。彼が候補として挙げる「遺物」を順に書き出してみましょう。
  2. 「勇ましい高尚なる生涯」とは、具体的にはどんな生き方だと内村は言っていますか。本文の言葉を引いて答えましょう。
  3. 「これは誰にも遺すことのできるところの遺物」と内村は強調します。なぜ「生涯」だけが、お金や事業や思想とちがって「誰にでも遺せる」のでしょうか。
  4. カーライルの『フランス革命史』の原稿が焼けてしまった話を、内村はなぜこの講演で持ち出したのでしょうか。何を伝えたかったのですか。
  5. 1894年(日清戦争が始まる年)、箱根の夏期学校に集まった若い青年たちに、内村はこの講演をしました。当時の青年たちに何を伝えたかったか、想像してみましょう。
  6. あなた自身は、「後世に何を遺したいか」と問われたとき、何を考えますか。内村の挙げた候補(金・事業・思想・教育・生涯)のどれに、あるいはそのほかの何に近いか、書いてみましょう。

指導要領との対応

このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」公民 第3学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。

  • 公民 A(1) — 個人の尊重、生き方と社会参加
  • 公民 A(2) — 民主主義を支える価値観、奉仕と責任
  • 歴史 (5) — 近代日本のあゆみ — 明治の思想と知識人

※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。

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出典・ライセンス

  • 原文: 内村鑑三「後世への最大遺物(抜粋)」(1894年)
  • 入力テキスト: 青空文庫 (底本:「後世への最大遺物 デンマルク国の話」岩波文庫、岩波書店、1946年10月10日初版発行(1994年8月6日第64刷を入力に使用))
  • 原文の権利: パブリックドメイン
  • 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors