食道楽(春の巻・抜粋) の表紙イラスト

食道楽(春の巻・抜粋)

小学校 家庭科 第5学年 B 衣食住の生活 目安 25 分

作者
村井弦斎(1864–1927)
原作発表
1903 年
出典
青空文庫
底本:「食道楽」岩波文庫、岩波書店、2005(平成17)年初版

学習のめあて

  • 100年以上前の本でありながら、現代の「食育」とほぼ同じ視点で書かれていることに気づく
  • 「食は健康の母なり」「家族の絆」「楽しい食卓」という三つの観点を、自分の家庭の食事と照らし合わせて考える
  • 明治時代の食生活と現代の食生活の違いを話し合う

本文

序 — 食は健康の母なり

 智育、徳育、体育たいいく、これを三育と云ふ。今日の文明開化の時代に於て、人として欠くべからざる三大要素さんだいようそである。しかるに、これ等の三育は何によりて発達するかと云ふに、ことごとくしょくに基づくものなり。

 智育は頭脳ずのうの活発によりて進む。頭脳の活発は健康の上に存す。徳育はこころ剛健ごうけんを要す。心の剛健も健康の上に存す。体育に至つては、申すまでもなく健康そのものなり。故に、智・徳・体の三育は、健康によりて支へられ、健康はまた、食によりてつちかはる。食は健康の母なり食道楽は健康の母なり。されば食道楽は、決してあそびにあらず、人生の根本こんぽんやしなふ大事業なり。

春の巻 — お登和の朝

 春の日の午前八時。お登和は台所だいどころに立つてゐる。朝のお味噌汁みそしるはもうできた。豆腐とうふに若布、ねぎを細かく刻んで散らした、ありふれた一椀である。けれども、お登和は、その一椀の中に、細々こまごまと心を込めた。

 お味噌は、信州しんしゅう古手ふるてを使う。豆腐は、近所の豆腐屋とうふや朝早あさはやくにいたきぬごし。若布は、鳴門なるとのもの。一つ一つは、当たり前の食材だが、組み合はせと、火加減で、味噌汁は毎日まいにち違ふ顔をする。

 夫の登が新聞を読みながら食卓しょくたくに着くと、お登和は、めしと味噌汁と漬物つけものと、それから今朝は、胡瓜きゅうりの浅漬けと、たまごの玉子焼たまごやきを運んだ。たまごは、二日前に、知り合ひの農家のうかから分けてもらつたもので、黄身きみがほろりと割れる。

「お登和、お前の朝餉あさげは、なぜこんなに、うまいのだ」と登がつぶやく。

り合はせのもので、お作りいたしますだけで」とお登和は微笑ほほゑむ。

「いや、有り合はせだから、うまいのだ。今日この時に、いちばん良い物を、いちばん良い加減で、お前はえらんでくれる。料理は、書物の通りに作るものではない。料理は、家族の顔色を見て作るものだ」

 お登和は、しばらくだまつてから、こう答へた。

「あなたが、お疲れの日には、消化のよいものを。お元気の日には、しつかりとした滋養じようのあるものを。雨の日には、温まるものを。晴れの日には、さつぱりしたものを。さういふ風に、その日、その家族のことを思ひながらこしらへますと、たとひ粗末そまつな材料でも、御馳走ごちそうになります。」

食道楽のしんの意味は、ここにある」と登は、うなずいた。「高価こうかな食物を集めるのではない。家族の顔色がんしょくを見て、その時、その場所ばしょに、いちばんふ一椀を、心を込めてし出す。これが、食といふものだ。」


※ このページについて

『食道楽』は、明治36年(1903年)に村井弦斎が報知新聞に連載した、日本初の本格的な食育小説です。「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」「冬の巻」の四巻からなり、お登和さんの作る毎日の家庭料理を物語の中心に置きながら、栄養学・西洋料理・衛生・家庭運営の知識を伝えました。当時の主婦・新婚夫婦・若い女性たちに圧倒的に支持され、累計100万部を超える明治のベストセラーとなりました。

本ページは、小学校5年家庭科の食育単元向けに、原作の序文と春の巻冒頭から「食は健康の母なり」「料理は家族の顔色を見て作るもの」という二つの中心的メッセージを抜粋・編集したものです。原作には、お登和と登の夫婦のやりとり、料理の具体的な手順、当時の食材事情など、興味深い場面が数多くあります。ぜひ 青空文庫の村井弦斎ページ で全文を読み通してみてください。

語句の意味

各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について

  • 食道楽(しょくどうらく) K 食べることを楽しむこと。また、食物に深い関心を寄せる人。明治末期から大正にかけて流行した言葉。本書は、ただの「食通自慢」ではなく「食を通して家族・健康・教育を考える」総合書である点が斬新だった。
  • 村井弦斎(むらい げんさい) K 1864–1927年。明治・大正期の小説家・ジャーナリスト。報知新聞の記者を経て、明治36年(1903)から同新聞に『食道楽』を連載。栄養学・西洋料理・家庭運営の知識を物語に織り込んだ「食育小説」として大ヒットし、四季四巻(春・夏・秋・冬)の単行本も累計100万部を超える明治のベストセラーとなった。
  • 衛生(えいせい) K 健康を保つこと。明治時代に西洋から入ってきた新しい概念で、栄養・清潔・運動などが「衛生」の柱として広まった。
  • 栄養(えいよう) K 体を作り、活動するもとになる食事の成分。明治時代後半に「タンパク質・脂肪・炭水化物」の三大栄養素が一般にも知られるようになった。
  • 滋養(じよう) K 体に栄養を与えること。当時よく使われた言葉で、「滋養のある食物」とは栄養価の高い食べ物のこと。
  • 主婦(しゅふ) K 家庭の家事を取り仕切る女性。明治時代、近代的な「家庭」という考え方が広まり、「主婦」の役割が注目されるようになった。本書は当時、主婦を主な読者と想定して書かれた。
  • お登和(おとわ) K 『食道楽』の主人公の一人。料理が得意で、家庭の食生活を一手に切り盛りする「理想の主婦」として描かれる女性。今日の視点で見ると性別役割の前提に古さがあるが、当時としては「主婦に学問を」という進歩的なメッセージでもあった。
  • 三度の食事(さんどの しょくじ) K 朝・昼・晩の食事。「三食を規則正しく」という考え方は、明治時代に西洋の生活様式とともに広まった。

考えてみよう

  1. 「食は健康の母なり」という弦斎の言葉は、なぜ現代の私たちにも響くのでしょうか。あなたの体験を交えて考えましょう。
  2. 100年以上前の本に「家族で食卓を囲むこと」「食事を楽しむこと」が大切だと書かれています。あなたの家庭の食卓と比べて、似ているところ・違うところを書き出してみましょう。
  3. 「お登和」のような「家庭の中で全てを取り仕切る主婦」という設定は、当時としては「主婦に料理の科学を教える」という新しい考え方でした。現代の私たちは、これをどう読み直すべきでしょうか。
  4. 明治時代の食生活と現代の食生活で、最も大きく変わったと思うことを 3 つ挙げましょう。
  5. 「食道楽」を読んだあなたが、今日からの食事で意識してみたいことを一つ書きましょう。

指導要領との対応

このページは、文部科学省「小学校学習指導要領(平成29年告示)」家庭科 第5学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。

  • B(2)ア — 食事の役割が分かり、日常の食事の大切さと食事の仕方について理解する
  • B(2)エ — 栄養を考えた食事の整え方を理解する

※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。

指導案 教員向け・授業展開の例

家庭科の「食育」単元の導入教材として活用できる。100年以上前の食育小説が現代の食育とほぼ同じ視点を持っていたことに気づかせ、「食と健康」「食と家族」「食と教育」を歴史的視野で考えさせたい。現代の「食育基本法」(2005) との比較も発展課題として有効。

授業時数
2 単位時間
準備
自分の家庭の一週間の献立メモ(事前課題)、文部科学省「食育基本法」のリーフレット

指導目標

  • 「食は健康の母なり」という核心的主張を読み取る
  • 明治時代と現代の食生活を比較し、変わったこと・変わらないことを整理する
  • 家庭の食卓を「健康」「家族」「楽しさ」の三つの観点から見直す

授業の流れ

  1. 10分 「100年前の本に何が書いてあると思う?」と問いかけ、本文を音読。
  2. 15分 「食は健康の母なり」について、自分の体験を発表し合う(朝ごはんを食べた日と食べない日の違いなど)。
  3. 15分 明治時代の食事(米・味噌汁・漬物中心)と現代の食事(多様な選択肢)の違いを比較表にする。
  4. 10分 「お登和さん」の役割が当時として持っていた進歩性と、現代から見たときの限界を議論する。
  5. 5分 今日からの自分の食事で意識したいことを一つ書く。

発問例・議論のポイント

  • 「食道楽」と「食通」「グルメ」は、似ているようで違います。何が違うでしょうか。
  • 現代の私たちは、食事を「楽しんで」いると思いますか? それとも「急いで済ませて」いますか?
  • 100年後の人々が、今の私たちの食生活を見たら、何を懐かしく思うと思いますか。

発展課題

  • 家族にインタビューして、子どもの頃の食卓と今の食卓の違いを聞き取る。
  • 『食道楽』夏・秋・冬の巻を青空文庫で読み、季節と食の関係を整理する。
  • 「現代版・食道楽」として、令和の食育エッセイを書いてみる。

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出典・ライセンス

  • 原文: 村井弦斎「食道楽(春の巻・抜粋)」(1903年)
  • 入力テキスト: 青空文庫 (底本:「食道楽」岩波文庫、岩波書店、2005(平成17)年初版)
  • 原文の権利: パブリックドメイン
  • 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors