食道楽(春の巻・抜粋)

序 — 食は健康の母なり

 智育、徳育、体育たいいく、これを三育と云ふ。今日の文明開化の時代に於て、人として欠くべからざる三大要素さんだいようそである。しかるに、これ等の三育は何によりて発達するかと云ふに、ことごとくしょくに基づくものなり。

 智育は頭脳ずのうの活発によりて進む。頭脳の活発は健康の上に存す。徳育はこころ剛健ごうけんを要す。心の剛健も健康の上に存す。体育に至つては、申すまでもなく健康そのものなり。故に、智・徳・体の三育は、健康によりて支へられ、健康はまた、食によりてつちかはる。食は健康の母なり食道楽は健康の母なり。されば食道楽は、決してあそびにあらず、人生の根本こんぽんやしなふ大事業なり。

春の巻 — お登和の朝

 春の日の午前八時。お登和は台所だいどころに立つてゐる。朝のお味噌汁みそしるはもうできた。豆腐とうふに若布、ねぎを細かく刻んで散らした、ありふれた一椀である。けれども、お登和は、その一椀の中に、細々こまごまと心を込めた。

 お味噌は、信州しんしゅう古手ふるてを使う。豆腐は、近所の豆腐屋とうふや朝早あさはやくにいたきぬごし。若布は、鳴門なるとのもの。一つ一つは、当たり前の食材だが、組み合はせと、火加減で、味噌汁は毎日まいにち違ふ顔をする。

 夫の登が新聞を読みながら食卓しょくたくに着くと、お登和は、めしと味噌汁と漬物つけものと、それから今朝は、胡瓜きゅうりの浅漬けと、たまごの玉子焼たまごやきを運んだ。たまごは、二日前に、知り合ひの農家のうかから分けてもらつたもので、黄身きみがほろりと割れる。

「お登和、お前の朝餉あさげは、なぜこんなに、うまいのだ」と登がつぶやく。

り合はせのもので、お作りいたしますだけで」とお登和は微笑ほほゑむ。

「いや、有り合はせだから、うまいのだ。今日この時に、いちばん良い物を、いちばん良い加減で、お前はえらんでくれる。料理は、書物の通りに作るものではない。料理は、家族の顔色を見て作るものだ」

 お登和は、しばらくだまつてから、こう答へた。

「あなたが、お疲れの日には、消化のよいものを。お元気の日には、しつかりとした滋養じようのあるものを。雨の日には、温まるものを。晴れの日には、さつぱりしたものを。さういふ風に、その日、その家族のことを思ひながらこしらへますと、たとひ粗末そまつな材料でも、御馳走ごちそうになります。」

食道楽のしんの意味は、ここにある」と登は、うなずいた。「高価こうかな食物を集めるのではない。家族の顔色がんしょくを見て、その時、その場所ばしょに、いちばんふ一椀を、心を込めてし出す。これが、食といふものだ。」


※ このページについて

『食道楽』は、明治36年(1903年)に村井弦斎が報知新聞に連載した、日本初の本格的な食育小説です。「春の巻」「夏の巻」「秋の巻」「冬の巻」の四巻からなり、お登和さんの作る毎日の家庭料理を物語の中心に置きながら、栄養学・西洋料理・衛生・家庭運営の知識を伝えました。当時の主婦・新婚夫婦・若い女性たちに圧倒的に支持され、累計100万部を超える明治のベストセラーとなりました。

本ページは、小学校5年家庭科の食育単元向けに、原作の序文と春の巻冒頭から「食は健康の母なり」「料理は家族の顔色を見て作るもの」という二つの中心的メッセージを抜粋・編集したものです。原作には、お登和と登の夫婦のやりとり、料理の具体的な手順、当時の食材事情など、興味深い場面が数多くあります。ぜひ 青空文庫の村井弦斎ページ で全文を読み通してみてください。