← ライブラリへ戻る

茶わんの湯

中学校 理科 第1学年 科学随筆観察と探究 目安 25 分

作者
寺田寅彦(1878–1935)
原作発表
1922 年
出典
青空文庫
底本:「日本の名随筆33 水」井上靖編、作品社、1985年7月25日第1刷発行

学習のめあて

  • 身近な現象(茶わんの湯気)と地球規模の現象(雷雨・季節風)が同じ原理でつながっていることを読み取る
  • 寺田寅彦が「観察→疑問→仮説」の手順を文章でどう運んでいるかを追う
  • 自分の身の回りで「茶わんの湯」のように原理を遡って観察できる現象を一つ見つけ、書き出してみる

本文

 ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱいはいっております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく不思議もないようですが、よく気をつけて見ていると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまの疑問が起こって来るはずです。ただ一ぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することの好きな人には、なかなかおもしろい見物みものです。

 第一に、湯の面からは白い湯げが立っています。これはいうまでもなく、熱い水蒸気が冷えて、小さな滴になったのが無数に群がっているので、ちょうど雲や霧と同じようなものです。この茶わんを、縁側の日向ひなたへ持ち出して、日光を湯げにあて、向こう側に黒い布でもおいてすかして見ると、滴の、粒の大きいのはちらちらと目に見えます。場合により、粒があまり大きくないときには、日光にすかして見ると、湯げの中に、にじのような、赤や青の色がついています。これは白い薄雲が月にかかったときに見えるのと似たようなものです。この色についてはお話しすることがどっさりありますが、それはまたいつか別のときにしましょう。

 すべて全く透明なガス体の蒸気が滴になる際には、必ず何かその滴のしんになるものがあって、そのまわりに蒸気が凝ってくっつくので、もしそういう心がなかったら、霧は容易にできないということが学者の研究でわかって来ました。その心になるものは通例、顕微鏡でも見えないほどの、非常に細かいちりのようなものです、空気中にはそれが自然にたくさん浮遊しているのです。空中に浮かんでいた雲が消えてしまった跡には、今言った塵のようなものばかりが残っていて、飛行機などで横からすかして見ると、ちょうど煙が広がっているように見えるそうです。

 茶わんから上がる湯げをよく見ると、湯が熱いかぬるいかが、おおよそわかります。締め切ったへやで、人の動き回らないときだとことによくわかります。熱い湯ですと湯げの温度が高くて、周囲の空気に比べてよけいに軽いために、どんどん盛んに立ちのぼります。反対に湯がぬるいと勢いが弱いわけです。湯の温度を計る寒暖計があるなら、いろいろ自分でためしてみるとおもしろいでしょう。もちろんこれは、まわりの空気の温度によっても違いますが、おおよその見当はわかるだろうと思います。

 次に湯げが上がるときにはいろいろのうずができます。これがまたよく見ているとなかなかおもしろいものです。線香の煙でもなんでも、煙の出るところからいくらかの高さまではまっすぐに上りますが、それ以上は煙がゆらゆらして、いくつもの渦になり、それがだんだんに広がり入り乱れて、しまいに見えなくなってしまいます。茶わんの湯げなどの場合だと、もう茶わんのすぐ上から大きく渦ができて、それがかなり早く回りながら上って行きます。

 これとよく似た渦で、もっと大きなのが庭の上なぞにできることがあります。春先などのぽかぽか暖かい日には、前日雨でもふって土のしめっているところへ日光が当たって、そこから白い湯げが立つことがよくあります。そういうときによく気をつけて見ていてごらんなさい。湯げは、縁の下や垣根かきねのすきまから冷たい風が吹き込むたびに、横になびいてはまた立ち上ります。そして時々大きな渦ができ、それがちょうど竜巻たつまきのようなものになって、地面から何尺もある、高い柱の形になり、非常な速さで回転するのを見ることがあるでしょう。

 茶わんの上や、庭先で起こる渦のようなもので、もっと大仕掛けなものがあります。それは雷雨のときに空中に起こっている大きな渦です。陸地の上のどこかの一地方が日光のために特別にあたためられると、そこだけは地面から蒸発する水蒸気が特に多くなります。そういう地方のそばに、割合に冷たい空気におおわれた地方がありますと、前に言った地方の、暖かい空気が上がって行くあとへ、入り代わりにまわりの冷たい空気が下から吹き込んで来て、大きな渦ができます。そしてひょうがふったり雷が鳴ったりします。

 これは茶わんの場合に比べると仕掛けがずっと大きくて、渦の高さも一里とか二里とかいうのですからそういう、いろいろな変わったことが起こるのですが、しかしまた見方によっては、茶わんの湯とこうした雷雨とはよほどよく似たものと思ってもさしつかえありません。もっとも雷雨のでき方は、今言ったような場合ばかりでなく、だいぶ模様のちがったのもありますから、どれもこれもみんな茶わんの湯に比べるのは無理ですがただ、ちょっと見ただけではまるで関係のないような事がらが、原理の上からはお互いによく似たものに見えるという一つの例に、雷をあげてみたのです。

 湯げのお話はこのくらいにして、今度は湯のほうを見ることにしましょう。

 白い茶わんにはいっている湯は、日陰で見ては別に変わった模様も何もありませんが、それを日向へ持ち出して直接に日光を当て、茶わんの底をよく見てごらんなさい。そこには妙なゆらゆらした光った線や薄暗い線が不規則な模様のようになって、それがゆるやかに動いているのに気がつくでしょう。これは夜電燈の光をあてて見ると、もっとよくあざやかに見えます。夕食のおぜんの上でもやれますからよく見てごらんなさい。それもお湯がなるべく熱いほど模様がはっきりします。

 次に、茶わんのお湯がだんだんに冷えるのは、湯の表面の茶わんの周囲から熱が逃げるためだと思っていいのです。もし表面にちゃんとふたでもしておけば、冷やされるのはおもにまわりの茶わんにふれた部分だけになります。そうなると、茶わんに接したところでは湯は冷えて重くなり、下のほうへ流れて底のほうへ向かって動きます。その反対に、茶わんのまん中のほうでは逆に上のほうへのぼって、表面からは外側に向かって流れる、だいたいそういうふうな循環が起こります。よく理科の書物なぞにある、ビーカーの底をアルコール・ランプで熱したときの水の流れと同じようなものになるわけです。これは湯の中に浮かんでいる、小さな糸くずなどの動くのを見ていても、いくらかわかるはずです。

 しかし茶わんの湯をふたもしないで置いた場合には、湯は表面からも冷えます。そしてその冷え方がどこも同じではないので、ところどころ特別に冷たいむらができます。そういう部分からは、冷えた水が下へ降りる、そのまわりの割合に熱い表面の水がそのあとへ向かって流れる、それが降りた水のあとへ届く時分には冷えてそこからおりる。こんなふうにして湯の表面には水の降りているところとのぼっているところとが方々にできます。従って湯の中までも、熱いところと割合にぬるいところとがいろいろに入り乱れてできて来ます。これに日光を当てると熱いところと冷たいところとの境で光が曲がるために、その光が一様にならず、むらになって茶わんの底を照らします。そのためにさきに言ったような模様が見えるのです。

 日の当たった壁や屋根をすかして見ると、ちらちらしたものが見えることがあります。あの「かげろう」というものも、この茶わんの底の模様と同じようなものです。「かげろう」が立つのは、壁や屋根が熱せられると、それに接した空気が熱くなって膨脹してのぼる、そのときにできる気流のむらが光を折り曲げるためなのです。

 このような水や空気のむらを非常に鮮明に見えるようにくふうすることができます。その方法を使って鉄砲のたまが空中を飛んでいるときに、前面の空気を押しつけているありさまや、たまの後ろに渦巻うずまきを起こして進んでいる様子を写真にとることもできるし、また飛行機のプロペラーが空気を切っている模様を調べたり、そのほかいろいろのおもしろい研究をすることができます。

 近ごろはまたそういう方法で、望遠鏡を使って空中の高いところの空気のむらを調べようとしている学者もいたようです。

 次には熱い茶わんの湯の表面を日光にすかして見ると、湯の面に虹の色のついた霧のようなものが一皮かぶさっており、それがちょうど亀裂きれつのように縦横に破れて、そこだけが透明に見えます。この不思議な模様が何であるかということは、私の調べたところではまだあまりよくわかっていないらしい。しかしそれも前の温度のむらと何か関係のあることだけは確かでしょう。

 湯が冷えるときにできる熱い冷たいむらがどうなるかということは、ただ茶わんのときだけの問題ではなく、たとえば湖水や海の水が冬になって表面から冷えて行くときにはどんな流れが起こるかというようなことにも関係して来ます。そうなるといろいろの実用上の問題と縁がつながって来ます。

 地面の空気が日光のために暖められてできるときのむらは、飛行家にとっては非常に危険なものです。いわゆる突風なるものがそれです。たとえば森と畑地との境のようなところですと、畑のほうが森よりも日光のためによけいにあたためられるので、畑では空気が上り森ではくだっています。それで畑の上から飛んで来て森の上へかかると、飛行機は自然と下のほうへ押しおろされる傾きがあります。これがあまりにはげしくなると危険になるのです。これと同じような気流の循環が、もっと大仕掛けに陸地と海との間に行なわれております。それはいわゆる海陸風と呼ばれているもので、昼間は海から陸へ、夜は反対に陸から海へ吹きます。少し高いところでは反対の風が吹いています。

 これと同じようなことが、山の頂きと谷との間にあって山谷風さんこくふうと名づけられています。これがもういっそう大仕掛けになって、たとえばアジア大陸と太平洋との間に起こるとそれがいわゆる季節風モンスーンで、われわれが冬期に受ける北西の風と、夏期の南がかった風になるのです。

 茶わんの湯のお話は、すればまだいくらでもありますが、今度はこれくらいにしておきましょう。

語句の意味

  • 湯げ(ゆげ) 湯から立ち上る湯気。実は水蒸気そのものではなく、空気中で冷えた水蒸気が小さな水滴になって白く見えている。
  • 水蒸気(すいじょうき) 水が気体になったもの。目には見えない透明なガス。
  • 滴(しずく)になる 気体(水蒸気)が冷えて液体(水)に戻ること。「凝結」とも言う。
  • 心(しん)/凝結核(ぎょうけつかく) 水蒸気が水滴になるときに、表面に水分子がくっつく芯となる微粒子。空中の塵や煙の粒など。これがないと雲はできない。
  • 対流(たいりゅう) 暖められて軽くなった流体が上昇し、冷たく重くなった流体が下降する循環。茶わんの中でも地球規模でも起こる。
  • 渦(うず) 流体が回転しながら流れること。湯気の中、竜巻、台風、季節風など、スケールが違っても本質は同じ。
  • 雹(ひょう) 積乱雲の中で氷の粒が成長し、地上に落ちてくるもの。
  • かげろう(陽炎) 熱せられた地面の上の空気が密度の違いで光を屈折させ、ゆらゆらと見える現象。
  • 海陸風(かいりくふう) 海と陸の温度差によって生じる風。昼は海→陸、夜は陸→海に吹く。
  • 季節風(モンスーン) 大陸と大洋の温度差で季節ごとに向きが変わる大規模な風。日本の冬の北西風・夏の南東風が代表例。

考えてみよう

  1. 寺田は冒頭で「ただ一ぱいのこの湯でも…なかなかおもしろい見物です」と書きます。彼が示そうとしている「見方」のコツを、本文の言葉を引いて整理しましょう。
  2. 「湯げは何でできているか」という疑問に、寺田はどう答えていますか。「凝結核」の役割を含めて、自分の言葉で説明しましょう。
  3. 茶わんの中の渦と、竜巻、雷雨、季節風は、すべて同じ原理で起こると寺田は主張します。共通する原理は何でしょうか。本文から探して書きましょう。
  4. 「水や空気の<em>むら</em>を非常に鮮明に見えるようにくふうする」方法で、何を観察できると本文に書かれていますか。三つ以上挙げてみましょう。
  5. 本文の話の運び方を観察しましょう。寺田は「茶わん → 庭 → 雷雨 → 海と陸 → 季節風」と、スケールをどう拡張していますか。話の構造を図にしてみましょう。
  6. あなたの身の回りで、「茶わんの湯」のように、観察を入り口にして地球や宇宙の大きな現象とつながる素材を一つ選んでみましょう。なぜそれを選んだかも書きましょう。

指導要領との対応

このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」理科 第1学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。

  • 中1 第2分野 — 身の回りの物質や現象を、定性的・定量的に観察・分析する態度
  • 中1 第1分野 — 気体・液体・固体の状態変化、熱の伝わり方
  • 学びに向かう力 — 身近な現象から科学的な疑問を引き出し、観察を通して仮説を立てる態度

※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。

出典・ライセンス

  • 原文: 寺田寅彦「茶わんの湯」(1922年)
  • 入力テキスト: 青空文庫 (底本:「日本の名随筆33 水」井上靖編、作品社、1985年7月25日第1刷発行)
  • 原文の権利: パブリックドメイン
  • 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors