トロッコ
中学校 国語 第1学年 C 読むこと 目安 30 分
学習のめあて
- 場面の展開(はじめての挑戦/土工との出会い/一人で帰る道/大人になった現在)に沿って、良平の心情の変化を読み取る
- 「ずんずん」「ひた辷り」「うんうん」などのオノマトペや感覚的な描写が、読み手に何を伝えているかを考える
- 結末の「薄暗い藪や坂のある路」が大人の良平の前にいまも続いているという表現の意味を、自分の言葉で説明する
本文
小田原熱海間に、軽便鉄道敷設の工事が始まったのは、良平の八つの年だった。良平は毎日村外れへ、その工事を見物に行った。工事を——といったところが、唯トロッコで土を運搬する——それが面白さに見に行ったのである。
トロッコの上には土工が二人、土を積んだ後ろに佇んでいる。トロッコは山を下るのだから、人手を借りずに走って来る。煽るように車台が動いたり、土工の袢天の裾がひらついたり、細い線路がしなったり——良平はそんなけしきを眺めながら、土工になりたいと思うことがある。せめては一度でも土工と一しょに、トロッコへ乗りたいと思うこともある。トロッコは村外れの平地へ来ると、自然と其処に止まってしまう。と同時に土工たちは、身軽にトロッコを飛び降りるが早いか、その線路の終点へ車の土をぶちまける。それから今度はトロッコを押し押し、もと来た山の方へ登り始める。良平はその時乗れないまでも、押すことさえ出来たらと思うのである。
或る夕方、——それは二月の初旬だった。良平は二つ下の弟や、弟と同じ年の隣の子供と、トロッコの置いてある村外れへ行った。トロッコは泥だらけになったまま、薄明るい中に並んでいる。が、その外は何処を見ても、土工たちの姿は見えなかった。三人の子供は恐る恐る、一番端にあるトロッコを押した。トロッコは三人の力が揃うと、突然ごろりと車輪をまわした。良平はこの音にひやりとした。しかし二度目の車輪の音は、もう彼を驚かさなかった。ごろり、ごろり、——トロッコはそういう音と共に、三人の手に押されながら、そろそろ線路を登って行った。
その内にかれこれ十間程来ると、線路の勾配が急になり出した。トロッコも三人の力では、いくら押しても動かなくなった。どうかすれば車と一しょに、押し戻されそうにもなることがある。良平はもう好いと思ったから、年下の二人に合図をした。
「さあ、乗ろう!」
彼等は一度に手をはなすと、トロッコの上へ飛び乗った。トロッコは最初徐ろに、それから見る見る勢いよく、一息に線路を下り出した。その途端につき当りの風景は、忽ち両側へ分かれるように、ずんずん目の前へ展開して来る。顔に当たる薄暮の風、足の下に躍るトロッコの動揺、——良平は殆ど有頂天になった。
しかしトロッコは二、三分の後、もうもとの終点に止まっていた。
「さあ、もう一度押すじゃあ」
良平は年下の二人と一しょに、又トロッコを押し上げにかかった。が、まだ車輪も動かない内に、突然彼等の後ろには、誰かの足音が聞え出した。のみならずそれは聞え出したと思うと、急にこういう怒鳴り声に変った。
「この野郎! 誰に断ってトロに触った?」
其処には古い印袢天に、季節外れの麦藁帽をかぶった、背の高い土工が佇んでいる。——そういう姿が目にはいった時、良平は年下の二人と一しょに、もう五、六間逃げ出していた。——それぎり良平は使の帰りに、人気のない工事場のトロッコを見ても、二度と乗って見ようと思ったことはない。唯その時の土工の姿は、今でも良平の頭の何処かに、はっきりした記憶を残している。薄明りの中に仄めいた、小さい黄色の麦藁帽、——しかしその記憶さえも、年毎に色彩は薄れるらしい。
その後十日余りたってから、良平は又たった一人、午過ぎの工事場に佇みながら、トロッコの来るのを眺めていた。すると土を積んだトロッコの外に、枕木を積んだトロッコが一輛、これは本線になる筈の、太い線路を登って来た。このトロッコを押しているのは、二人とも若い男だった。良平は彼等を見た時から、何だか親しみ易いような気がした。「この人たちならば叱られない」——彼はそう思いながら、トロッコの側へ駆けて行った。
「おじさん。押してやろうか?」
その中の一人、——縞のシャツを着ている男は、俯向きにトロッコを押したまま、思った通り快い返事をした。
「おお、押してくよう」
良平は二人の間にはいると、力一杯押し始めた。
「われは中中力があるな」
他の一人、——耳に巻煙草を挟んだ男も、こう良平を褒めてくれた。
その内に線路の勾配は、だんだん楽になり始めた。「もう押さなくとも好い」——良平は今にも云われるかと内心気がかりでならなかった。が、若い二人の土工は、前よりも腰を起したぎり、黙黙と車を押し続けていた。良平はとうとうこらえ切れずに、怯ず怯ずこんなことを尋ねて見た。
「何時までも押していて好い?」
「好いとも」
二人は同時に返事をした。良平は「優しい人たちだ」と思った。
五、六町余り押し続けたら、線路はもう一度急勾配になった。其処には両側の蜜柑畑に、黄色い実がいくつも日を受けている。
「登り路の方が好い、何時までも押させてくれるから」——良平はそんなことを考えながら、全身でトロッコを押すようにした。
蜜柑畑の間を登りつめると、急に線路は下りになった。縞のシャツを着ている男は、良平に「やい、乗れ」と云った。良平は直に飛び乗った。トロッコは三人が乗り移ると同時に、蜜柑畑の匂を煽りながら、ひた辷りに線路を走り出した。「押すよりも乗る方がずっと好い」——良平は羽織に風を孕ませながら、当り前のことを考えた。「行きに押す所が多ければ、帰りに又乗る所が多い」——そうもまた考えたりした。
竹藪のある所へ来ると、トロッコは静かに走るのを止めた。三人は又前のように、重いトロッコを押し始めた。竹藪は何時か雑木林になった。爪先上りの所所には、赤錆の線路も見えない程、落葉のたまっている場所もあった。その路をやっと登り切ったら、今度は高い崖の向うに、広広と薄ら寒い海が開けた。と同時に良平の頭には、余り遠く来過ぎたことが、急にはっきりと感じられた。
三人は又トロッコへ乗った。車は海を右にしながら、雑木の枝の下を走って行った。しかし良平はさっきのように、面白い気もちにはなれなかった。「もう帰ってくれれば好い」——彼はそうも念じて見た。が、行く所まで行きつかなければ、トロッコも彼等も帰れないことは、勿論彼にもわかり切っていた。
その次に車の止まったのは、切崩した山を背負っている、藁屋根の茶店の前だった。二人の土工はその店へはいると、乳呑児をおぶった上さんを相手に、悠悠と茶などを飲み始めた。良平は独りいらいらしながら、トロッコのまわりをまわって見た。トロッコには頑丈な車台の板に、跳ねかえった泥が乾いていた。
少時の後、茶店を出て来しなに、巻煙草を耳に挟んだ男は、(その時はもう挟んでいなかったが)トロッコの側にいる良平に新聞紙に包んだ駄菓子をくれた。良平は冷淡に「難有う」と云った。が、直に冷淡にしては、相手にすまないと思い直した。彼はその冷淡さを取り繕うように、包み菓子の一つを口へ入れた。菓子には新聞紙にあったらしい、石油の匂がしみついていた。
三人はトロッコを押しながら緩い傾斜を登って行った。良平は車に手をかけていても、心は外のことを考えていた。
その坂を向うへ下り切ると、又同じような茶店があった。土工たちがその中へはいった後、良平はトロッコに腰をかけながら、帰ることばかり気にしていた。茶店の前には花のさいた梅に、西日の光が消えかかっている。「もう日が暮れる」——彼はそう考えると、ぼんやり腰かけてもいられなかった。トロッコの車輪を蹴って見たり、一人では動かないのを承知しながらうんうんそれを押して見たり、——そんなことに気もちを紛らせていた。
ところが土工たちは出て来ると、車の上の枕木に手をかけながら、無造作に彼にこう云った。
「われはもう帰んな。おれたちは今日は向う泊りだから」
「あんまり帰りが遅くなるとわれの家でも心配するずら」
良平は一瞬間呆気にとられた。もうかれこれ暗くなること、去年の暮母と岩村まで来たが、今日の途はその三、四倍あること、それを今からたった一人、歩いて帰らなければならないこと、——そういうことが一時にわかったのである。良平は殆ど泣きそうになった。が、泣いても仕方がないと思った。泣いている場合ではないとも思った。彼は若い二人の土工に、取って附けたような御時宜をすると、どんどん線路伝いに走り出した。
良平は少時無我夢中に線路の側を走り続けた。その内に懐の菓子包みが、邪魔になることに気がついたから、それを路側へ抛り出す次手に、板草履も其処へ脱ぎ捨ててしまった。すると薄い足袋の裏へじかに小石が食いこんだが、足だけは遙かに軽くなった。彼は左に海を感じながら、急な坂路を駆け登った。時時涙がこみ上げて来ると、自然に顔が歪んで来る。——それは無理に我慢しても、鼻だけは絶えずくうくう鳴った。
竹藪の側を駆け抜けると、夕焼けのした日金山の空も、もう火照りが消えかかっていた。良平は、愈気が気でなかった。往きと返りと変るせいか、景色の違うのも不安だった。すると今度は着物までも、汗の濡れ通ったのが気になったから、やはり必死に駆け続けたなり、羽織を路側へ脱いで捨てた。
蜜柑畑へ来る頃には、あたりは暗くなる一方だった。「命さえ助かれば——」良平はそう思いながら、辷ってもつまずいても走って行った。
やっと遠い夕闇の中に、村外れの工事場が見えた時、良平は一思いに泣きたくなった。しかしその時もべそはかいたが、とうとう泣かずに駆け続けた。
彼の村へはいって見ると、もう両側の家家には、電燈の光がさし合っていた。良平はその電燈の光に、頭から汗の湯気の立つのが、彼自身にもはっきりわかった。井戸端に水を汲んでいる女衆や、畑から帰って来る男衆は、良平が喘ぎ喘ぎ走るのを見ては、「おいどうしたね?」などと声をかけた。が、彼は無言のまま、雑貨屋だの床屋だの、明るい家の前を走り過ぎた。
彼の家の門口へ駆けこんだ時、良平はとうとう大声に、わっと泣き出さずにはいられなかった。その泣き声は彼の周囲へ、一時に父や母を集まらせた。殊に母は何とか云いながら、良平の体を抱えるようにした。が、良平は手足をもがきながら、啜り上げ啜り上げ泣き続けた。その声が余り激しかったせいか、近所の女衆も三、四人、薄暗い門口へ集って来た。父母は勿論その人たちは、口口に彼の泣く訣を尋ねた。しかし彼は何と云われても泣き立てるより外に仕方がなかった。あの遠い路を駆け通して来た、今までの心細さをふり返ると、いくら大声に泣き続けても、足りない気もちに迫られながら、…………
良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出すことがある。全然何の理由もないのに?——塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………
語句の意味
- 軽便鉄道(けいべんてつどう) ふつうの鉄道より小型の、簡単に敷設できる鉄道。物資の運搬などに使われた。
- 敷設(ふせつ) 線路や水道管などをしき設けること。
- トロッコ 主に工事現場で土砂などを運ぶ、レールの上を走る小型の手押し車。
- 土工(どこう) 土木工事の現場で働く人。
- 袢天/印袢天(はんてん/しるしばんてん) 職人が着る、しるしの入った短い上着。
- 麦藁帽(むぎわらぼう) 麦のわらで編んだ夏用の帽子。
- 間(けん) 長さの単位。一間は約1.8メートル。「十間」は約18メートル。
- 勾配(こうばい) 坂のかたむきの度合い。
- 有頂天(うちょうてん) 最高にうれしくて夢中になっている状態。
- 蜜柑畑(みかんばたけ) みかんを育てている畑。神奈川県の小田原・熱海あたりの代表的な風景。
- 枕木(まくらぎ) 線路の下に直角にしき、レールを支える木の角材。
- 御時宜(おじぎ) 「お辞儀」。頭をさげてあいさつすること。
- 板草履(いたぞうり) 底に板をつけたぞうり。
- 塵労(じんろう) 世の中の細々としたわずらわしさ・苦労。
- 「われ」 「お前」の方言(神奈川県西部などで使われた呼び方)。土工が良平に向かって使っている。
- 「ずら」 「だろう」の意味の方言。「心配するずら」=「心配するだろう」。
考えてみよう
- 良平は最初トロッコに乗ることに「ひやり」とし、すぐにそれを楽しむようになります。最初のひやりとした感情は、何によって消えたのでしょうか。本文の言葉を引いて答えましょう。
- 若い二人の土工と一緒に長い坂を押し続けるあいだ、良平の気持ちはどう変わっていきますか。前半(押し始め)と後半(茶店のころ)を比べて書きましょう。
- 「われはもう帰んな」と言われた瞬間、良平はなぜ「呆気にとられた」のでしょうか。それまでの良平の頭の中にあったものと、現実とのずれを考えながら書きましょう。
- 良平は走って帰る途中で、菓子包み・板草履・羽織を次々と捨てていきます。これらの「捨てていくもの」は、良平の何を表していると考えられますか。
- 結末で、二十六歳の良平の前に「薄暗い藪や坂のある路」が今もはっきり浮かぶ、と書かれています。芥川は子どものころの一日の体験を、なぜ大人になった良平の心の風景として最後に置いたのでしょうか。あなたの考えを書きましょう。
指導要領との対応
このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」国語 第1学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。
- C(1)イ — 場面の展開や登場人物の相互関係、心情の変化などについて、描写を基に捉える
- C(1)エ — 文章の構成や展開、表現の効果について、根拠を明確にして考える
- C(1)オ — 文章を読んで理解したことや考えたことを知識や経験と結び付け、自分の考えを広げたり深めたりする
※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。