夢十夜・第一夜
中学校 国語 第1学年 C 読むこと 目安 15 分
学習のめあて
- 「こんな夢を見た」で始まる語りの効果を考えながら、現実とも夢ともつかない情景を思い浮かべる
- 「赤い日」「真白な百合」「暁の星」など色と光のイメージが、時の流れと再会をどう象徴しているかを読み取る
- 約束を待つ「自分」の心の動き(疑い/忘れかける/気づく)を追いながら、ラストの「百年はもう来ていたんだな」の意味を自分の言葉で説明する
本文
こんな夢を見た。
腕組をして枕元に坐っていると、仰向に寝た女が、静かな声でもう死にますと云う。女は長い髪を枕に敷いて、輪郭の柔らかな瓜実顔をその中に横たえている。真白な頬の底に温かい血の色がほどよく差して、唇の色は無論赤い。とうてい死にそうには見えない。しかし女は静かな声で、もう死にますと判然云った。自分も確にこれは死ぬなと思った。そこで、そうかね、もう死ぬのかね、と上から覗き込むようにして聞いて見た。死にますとも、と云いながら、女はぱっちりと眼を開けた。大きな潤いのある眼で、長い睫に包まれた中は、ただ一面に真黒であった。その真黒な眸の奥に、自分の姿が鮮に浮かんでいる。
自分は透き徹るほど深く見えるこの黒眼の色沢を眺めて、これでも死ぬのかと思った。それで、ねんごろに枕の傍へ口を付けて、死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね、とまた聞き返した。すると女は黒い眼を眠そうに瞠たまま、やっぱり静かな声で、でも、死ぬんですもの、仕方がないわと云った。
じゃ、私の顔が見えるかいと一心に聞くと、見えるかいって、そら、そこに、写ってるじゃありませんかと、にこりと笑って見せた。自分は黙って、顔を枕から離した。腕組をしながら、どうしても死ぬのかなと思った。
しばらくして、女がまたこう云った。
「死んだら、埋めて下さい。大きな真珠貝で穴を掘って。そうして天から落ちて来る星の破片を墓標に置いて下さい。そうして墓の傍に待っていて下さい。また逢いに来ますから」
自分は、いつ逢いに来るかねと聞いた。
「日が出るでしょう。それから日が沈むでしょう。それからまた出るでしょう、そうしてまた沈むでしょう。——赤い日が東から西へ、東から西へと落ちて行くうちに、——あなた、待っていられますか」
自分は黙って首肯いた。女は静かな調子を一段張り上げて、
「百年待っていて下さい」と思い切った声で云った。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた。すると、黒い眸のなかに鮮に見えた自分の姿が、ぼうっと崩れて来た。静かな水が動いて写る影を乱したように、流れ出したと思ったら、女の眼がぱちりと閉じた。長い睫の間から涙が頬へ垂れた。——もう死んでいた。
自分はそれから庭へ下りて、真珠貝で穴を掘った。真珠貝は大きな滑かな縁の鋭どい貝であった。土をすくうたびに、貝の裏に月の光が差してきらきらした。湿った土の匂もした。穴はしばらくして掘れた。女をその中に入れた。そうして柔らかい土を、上からそっと掛けた。掛けるたびに真珠貝の裏に月の光が差した。
それから星の破片の落ちたのを拾って来て、かろく土の上へ乗せた。星の破片は丸かった。長い間大空を落ちている間に、角が取れて滑らかになったんだろうと思った。抱き上げて土の上へ置くうちに、自分の胸と手が少し暖くなった。
自分は苔の上に坐った。これから百年の間こうして待っているんだなと考えながら、腕組をして、丸い墓石を眺めていた。そのうちに、女の云った通り日が東から出た。大きな赤い日であった。それがまた女の云った通り、やがて西へ落ちた。赤いまんまでのっと落ちて行った。一つと自分は勘定した。
しばらくするとまた唐紅の天道がのそりと上って来た。そうして黙って沈んでしまった。二つとまた勘定した。
自分はこう云う風に一つ二つと勘定して行くうちに、赤い日をいくつ見たか分らない。勘定しても、勘定しても、しつくせないほど赤い日が頭の上を通り越して行った。それでも百年がまだ来ない。しまいには、苔の生えた丸い石を眺めて、自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した。
すると石の下から斜に自分の方へ向いて青い茎が伸びて来た。見る間に長くなってちょうど自分の胸のあたりまで来て留まった。と思うと、すらりと揺ぐ茎の頂に、心持首を傾けていた細長い一輪の蕾が、ふっくらと弁を開いた。真白な百合が鼻の先で骨に徹えるほど匂った。そこへ遥の上から、ぽたりと露が落ちたので、花は自分の重みでふらふらと動いた。自分は首を前へ出して冷たい露の滴る、白い花弁に接吻した。自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」とこの時始めて気がついた。
語句の意味
- 瓜実顔(うりざねがお) 瓜の種のように、面長で色白の顔立ち。日本の伝統的な美人の顔の表現。
- 黒い眸(ひとみ) 黒目。漱石は女の目を「ただ一面に真黒」と書き、その中に自分の姿が写っていると描く。
- 真珠貝(しんじゅがい) 真珠を作る貝。ここでは女を埋める穴を掘る道具として使われる、現実離れした美しい道具。
- 墓標(はかじるし) 墓の上に立てる目印。
- 唐紅(からくれない) 鮮やかな深い赤色。
- 天道(てんとう) 太陽のこと。漢語的・古風な言い方。
- 苔(こけ) 湿った石や地面に生える小さな植物。長い時の経過を象徴する。
- 蕾(つぼみ) まだ開いていない花。
- 弁(はなびら) 花弁。花の一片一片。
- 接吻(せっぷん) くちづけ。
- 暁(あかつき) 夜明け前の、まだ少し暗い空が明るくなりかけているころ。
考えてみよう
- 「自分」は女に「死ぬんじゃなかろうね、大丈夫だろうね」と二度も尋ねます。このときの「自分」の気持ちを、本文の言葉を引いて書きましょう。
- 「自分はただ待っていると答えた」の前後で、「自分」の感情はどう変化しているでしょうか。
- 勘定しきれないほどの「赤い日」が頭の上を通り過ぎていく場面は、何を表していると思いますか。時の感覚の描き方について考えましょう。
- 「自分は女に欺されたのではなかろうかと思い出した」のすぐ後に、青い茎・蕾・真白な百合が現れます。この順番にどんな意味があると思いますか。
- 最後の「百年はもう来ていたんだな」を読んで、あなたはどんな気持ちになりましたか。なぜそう感じたのかを、本文の表現と結び付けて書きましょう。
指導要領との対応
このページは、文部科学省「中学校学習指導要領(平成29年告示)」国語 第1学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。
- C(1)イ — 場面の展開や登場人物の相互関係、心情の変化などについて、描写を基に捉える
- C(1)エ — 文章の構成や展開、表現の効果について、根拠を明確にして考える
- C(1)オ — 文章を読んで理解したことや考えたことを知識や経験と結び付け、自分の考えを広げたり深めたりする
※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。