下 関 条 約 (1895) — 日 清 戦 争 の 終 結 と 東 ア ジ ア の 転 換
高等学校 日本史 第1学年 古典 明治後期近代国際関係日清戦争 目安 30 分
学習のめあて
- 下 関 条 約 の 内 容 を 理 解 す る
- 日 清 戦 争 (1894–1895) の 歴 史 的 意 義 を 把 握 す る
- 「ア ジ ア の 新 興 帝 国 」 と し て の 日 本 の 出 発 点 を 知 る
- 三 国 干 渉・台 湾 統 治 ・ 後 の 日 露 戦 争 へ の つ な が り を 考 察 す る
本文
下 関 条 約 主 要 条 文 (現 代 語 訳・抜 粋)
日 本 国 皇 帝 陛 下 及 び 清 国 皇 帝 陛 下 は、 両 国 の 平 和 を 回 復 し、 そ の 利 益 を 増 進 す る た め、 講 和 条 約 を 締 結 す る こ と を 望 む。
両 国 皇 帝 は、 そ の 全 権 委 員 を 任 命 し た。 日 本 国 全 権 大 使 ─ 内 閣 総 理 大 臣 伯 爵 伊 藤 博 文、 外 務 大 臣 子 爵 陸 奥 宗 光。 清 国 全 権 大 使 ─ 太 子 太 傅 文 華 殿 大 学 士 北 洋 通 商 大 臣 直 隷 総 督 一 等 粛 毅 伯 李 鴻 章。第 1 条: 清 国 は、 朝 鮮 国 が 完 全 無 欠 な る 独 立 自 主 の 国 で あ る こ と を 確 認 す る。 こ れ に よ り、 朝 鮮 国 の 清 国 へ の 朝 貢・典 礼・献 上 物 等 は、 将 来 永 久 に 廃 止 さ れ る。
第 2 条: 清 国 は、 以 下 の 土 地 の 主 権 及 び 該 地 方 に あ る 城 砦・兵 器 製 造 所・官 有 物 を、 永 久 に 日 本 に 譲 渡 す る。
(1) 遼 東 半 島 の 南 部 (鳳 凰 城・営 口・遼 河 等 を 結 ぶ 線 の 南 側)
(2) 台 湾 全 島 と そ の 附 属 諸 島 嶼
(3) 澎 湖 (ほ う こ) 諸 島第 4 条: 清 国 は、 庫 平 銀 (こ へ い ぎ ん) 2 億 両 (に お く り ょ う) を 賠 償 金 と し て 日 本 に 支 払 う。 こ の 支 払 い は 7 年 に 分 け て 行 う。
第 6 条: 清 国 は、 日 本 と 通 商 航 海 条 約 を 改 め て 締 結 し、 沙 市・重 慶・蘇 州・杭 州 を 新 た に 開 港 し、 日 本 人 の 通 商・居 住・営 業 を 認 め る。
明 治 28 年 4 月 17 日 (1895 年 4 月 17 日)、 山 口 県 下 関 市 春 帆 楼 に て 調 印。
解 説 ─ 1895 年 4 月 17 日、 下 関 春 帆 楼
1895 年 4 月 17 日、 山 口 県 下 関 市 の 料 亭「春 帆 楼 (し ゅ ん ぱ ん ろ う)」 で、 日 本 と 清 国 (中 国) の 講 和 条 約 が 調 印 さ れ た。
日 本 側 全 権 ─ 内 閣 総 理 大 臣 伊 藤 博 文・外 務 大 臣 陸 奥 宗 光。
清 国 側 全 権 ─ 北 洋 通 商 大 臣 李 鴻 章 (リ・ホ ン チ ャ ン)。
こ の 条 約 が、 日 清 戦 争 (1894 年 7 月 開 戦 ~ 1895 年 4 月 終 結) を 正 式 に 終 わ ら せ、 そ し て 東 ア ジ ア の 国 際 秩 序 を 大 き く 変 え た。
三 つ の 大 き な 変 化
下 関 条 約 が も た ら し た 三 つ の 大 き な 変 化:
① 朝 鮮 ─ 清 国 の 影 響 圏 か ら 日 本 の 影 響 圏 へ
第 1 条 で、 朝 鮮 が 「独 立 国」 と し て 確 認 さ れ た。
こ れ ま で 朝 鮮 は 清 国 の 朝 貢 国 (ち ょ う こ う こ く) で、 清 の 影 響 下 に あ っ た。 下 関 条 約 で 朝 鮮 は 形 式 的 に 独 立 し た が、 実 質 は 日 本 の 影 響 圏 に 入 っ た こ と を 意 味 し た。
こ の 15 年 後 ─ 1910 年 (明 治 43 年) ─ 日 本 は 朝 鮮 を 併 合 す る (韓 国 併 合)。
② 台 湾 ─ 日 本 の 初 め て の 海 外 植 民 地
第 2 条 で、 台 湾 全 島 と 澎 湖 諸 島 が 永 久 に 日 本 に 割 譲 さ れ た。
こ れ は、 日 本 が 史 上 初 め て 「海 外 植 民 地」 を 持 つ こ と を 意 味 し た。
1895 年 か ら 1945 年 の 50 年 間、 台 湾 は 日 本 統 治 下 と な る。
こ の 経 験 が、 そ の 後 の 日 本 帝 国 主 義 の 形 を 決 定 し た。
③ 賠 償 金 ─ 日 本 重 工 業 化 の 元 手
第 4 条 で、 清 国 か ら 日 本 へ 2 億 両 (約 3 億 1 千 万 円) の 賠 償 金 が 支 払 わ れ た。
こ れ は 当 時 の 日 本 の 国 家 予 算 の 約 3 年 分 と い う 巨 額。
こ の 賠 償 金 が、 八 幡 製 鉄 所 (1901 年 操 業) を は じ め と す る 日 本 の 重 工 業 化 の 元 手 と な っ た。
こ れ に よ り、 日 本 は 急 速 に 産 業 革 命 を 進 め、 ア ジ ア 唯 一 の 近 代 工 業 国 と な っ た。
三 国 干 渉 ─ 屈 辱 と 「臥 薪 嘗 胆」
下 関 条 約 調 印 か ら わ ず か 6 日 後 の 1895 年 4 月 23 日 ─ ロ シ ア・フ ラ ン ス・ド イ ツ の 三 国 が、 日 本 に 対 し て こ う 勧 告 し た:
「遼 東 半 島 を 清 国 に 返 還 す べ し」 と。
こ れ が 「三 国 干 渉」 で あ る。
ロ シ ア に と っ て、 日 本 が 遼 東 半 島 (満 州 へ の 入 り 口) を 領 有 す る こ と は、 自 国 の シ ベ リ ア 鉄 道 計 画 と の 衝 突 を 意 味 し た。 だ か ら ロ シ ア が 主 導 し、 フ ラ ン ス・ド イ ツ を 巻 き 込 ん で 日 本 に 圧 力 を か け た の だ。
当 時 の 日 本 は、 ま だ ロ シ ア・フ ラ ン ス・ド イ ツ と 戦 う 国 力 が な か っ た。
や む を 得 ず、 1895 年 11 月、 日 本 は 遼 東 半 島 を 清 国 に 返 還 し た (代 わ り に 賠 償 金 が 増 額 さ れ た)。
こ の 屈 辱 か ら、 日 本 国 民 の 間 で 「臥 薪 嘗 胆 (が し ん し ょ う た ん)」 と い う 言 葉 が 流 行 し た。
古 代 中 国 の 故 事 (薪 の 上 に 寝、 苦 い 胆 を 嘗 め て 復 讐 の 志 を 忘 れ ぬ) か ら 来 た 言 葉 で、「い つ か ロ シ ア に 復 讐 す る」 と い う 国 民 的 感 情 を 表 し た。
こ の 「臥 薪 嘗 胆」 が、 10 年 後 の 日 露 戦 争 (1904–1905) へ と つ な が っ て い く。
1895 年 ─ 東 ア ジ ア の 大 転 換 点
下 関 条 約 が 調 印 さ れ た 1895 年 は、 東 ア ジ ア 史 の 大 き な 転 換 点 で あ っ た。
| 1894 年 以 前 | 1895 年 以 降 | |
|---|---|---|
| 東 ア ジ ア の 覇 権 | 清 国 (中 国 中 心 の 朝 貢 体 制) | 日 本 (ア ジ ア の 新 興 帝 国) |
| 朝 鮮 の 立 場 | 清 国 の 朝 貢 国 | 独 立 国 (実 質 は 日 本 の 影 響 圏) |
| 日 本 の 立 場 | 近 代 化 途 中 の 後 発 国 | 植 民 地 (台 湾) を 持 つ 帝 国 |
| 中 国 の 衰 退 | 表 面 上 は 大 国 | 「眠 れ る 巨 龍」 の 弱 さ が 露 呈 |
こ の 転 換 が、 そ の 後 の 50 年 の 東 ア ジ ア 史 ─ 日 露 戦 争 (1904–1905)・韓 国 併 合 (1910)・辛 亥 革 命 (1911) ・ 第 一 次 世 界 大 戦・満 州 事 変 (1931)・日 中 戦 争 (1937–1945)・太 平 洋 戦 争 (1941–1945) ─ を 決 定 し た。
李 鴻 章 暗 殺 未 遂 と 賠 償 金 減 額
下 関 条 約 交 渉 中 の 1895 年 3 月 24 日、 思 い が け な い 事 件 が 起 こ っ た。
清 国 全 権 ・ 李 鴻 章 が、 春 帆 楼 か ら の 帰 り 道、 日 本 人 暴 漢 (小 山 豊 太 郎、 26 歳) に 拳 銃 で 撃 た れ た の で あ る。
左 頬 に 銃 弾 を 受 け 重 傷。 し か し 73 歳 の 老 外 交 官 は、 そ の ま ま 交 渉 を 続 け た。
こ の 事 件 は 国 際 的 に 報 道 さ れ、 日 本 政 府 は 大 い に 困 惑 し た。
日 本 政 府 は 罪 を 詫 び、 当 初 予 定 し て い た 賠 償 金 額 を 減 額 す る こ と で、 国 際 的 印 象 を 改 善 し よ う と し た。
小 山 豊 太 郎 は 無 期 懲 役 と な り (後 に 減 刑 さ れ 1907 年 出 獄)、 こ の 事 件 は 「李 鴻 章 狙 撃 事 件」 と し て 日 本 近 代 史 に 残 っ た。
春 帆 楼 ─ 現 在 も 営 業 中
下 関 条 約 が 調 印 さ れ た 料 亭 「春 帆 楼」 は、 1888 年 創 業。
1895 年 の 講 和 会 議 以 来、 今 も 営 業 を 続 け て お り、 隣 接 し て 「日 清 講 和 記 念 館」 が 1937 年 に 建 設 さ れ た。
現 在 も、 講 和 が 行 わ れ た 部 屋 が 保 存 さ れ て お り、 伊 藤 博 文・李 鴻 章 が 座 っ た 椅 子 や テ ー ブ ル を 見 る こ と が で き る。
山 口 県 下 関 市 を 訪 れ た 際 は、 ぜ ひ 立 ち 寄 っ て み て ほ し い。
1895 年 か ら 2026 年 へ ─ 131 年 後 の 私 た ち
下 関 条 約 か ら 131 年。
こ の 条 約 で 始 ま っ た 日 本 の 帝 国 主 義 は、 1945 年 の 敗 戦 で 終 わ っ た。
台 湾 は 1945 年 に 中 華 民 国 に 返 還 さ れ、 朝 鮮 は 1945 年 に 解 放、 1948 年 に 大 韓 民 国 ・ 朝 鮮 民 主 主 義 人 民 共 和 国 と し て 独 立 し た。
だ が、 1895 年 の 下 関 条 約 か ら 始 ま っ た 日 中 ・ 日 韓 ・ 日 台 の 複 雑 な 関 係 は、 今 も 完 全 に 解 決 さ れ た わ け で は な い。
2 1 世 紀 の 東 ア ジ ア 関 係 を 理 解 す る た め に も、 1895 年 4 月 17 日 の 春 帆 楼 で 何 が 起 こ っ た か を、 知 っ て お く こ と は 大 切 で あ る。
歴 史 は、 過 去 の 出 来 事 を 知 る こ と で、 現 在 と 未 来 を 考 え る 力 を 与 え る ─ こ れ が、 下 関 条 約 を 読 む 意 味 で あ る。
語句の意味
各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について
- 下 関 条 約 (し も の せ き じ ょ う や く) K 1895 年 4 月 17 日、 山 口 県 下 関 市 の 春 帆 楼 (し ゅ ん ぱ ん ろ う) で 調 印 さ れ た、 日 本 と 清 国 (中 国) の 講 和 条 約。 正 式 名 「日 清 講 和 条 約」。 全 11 条。 日 清 戦 争 (1894–1895) を 終 結 さ せ、 日 本 を ア ジ ア の 新 興 帝 国 へ と 押 し 上 げ た 歴 史 的 条 約。
- 日 清 戦 争 (に っ し ん せ ん そ う ・ 1894–1895) K 朝 鮮 を め ぐ る 日 本 と 清 国 の 戦 争。 1894 年 7 月 開 戦、 1895 年 4 月 講 和。 日 本 の 圧 倒 的 勝 利 で 終 わ り、 清 国 の ア ジ ア 覇 権 が 終 焉 し、 日 本 が ア ジ ア の 新 興 強 国 と し て 登 場 し た。
- 伊 藤 博 文 (い と う ひ ろ ぶ み) K 1841–1909。 長 州 藩 出 身。 初 代 内 閣 総 理 大 臣。 下 関 条 約 で は 日 本 側 全 権。 後 に 韓 国 統 監 と な り、 1909 年 ハ ル ビ ン で 安 重 根 に 暗 殺 さ れ た。
- 陸 奥 宗 光 (む つ む ね み つ) K 1844–1897。 紀 州 藩 出 身。 第 二 次 伊 藤 内 閣 の 外 務 大 臣。 下 関 条 約 で 日 本 側 全 権 委 員 と し て 伊 藤 と と も に 出 席。 「カ ミ ソ リ 陸 奥」 と 呼 ば れ た 鋭 い 外 交 官。
- 李 鴻 章 (り こ う し ょ う ・ リ ・ ホ ン チ ャ ン) K 1823–1901。 清 国 の 政 治 家・外 交 官。 北 洋 大 臣 と し て 清 国 外 交 を 取 り 仕 切 っ た。 下 関 条 約 交 渉 中、 暴 漢 に 撃 た れ 重 傷 を 負 う が、 そ の 後 も 交 渉 を 続 け、 条 約 に 調 印 し た。
- 春 帆 楼 (し ゅ ん ぱ ん ろ う) K 山 口 県 下 関 市 の 料 亭。 下 関 条 約 の 調 印 が こ こ で 行 わ れ た。 現 在 も 営 業 を 続 け、 「日 清 講 和 記 念 館」 が 隣 接。
- 台 湾 割 譲 (た い わ ん か つ じ ょ う) K 下 関 条 約 第 2 条 で 規 定。 清 国 か ら 日 本 へ 台 湾 全 島 と 澎 湖 (ほ う こ) 諸 島 が 永 久 譲 渡 さ れ た。 こ れ に よ り、 日 本 は 初 め て 海 外 植 民 地 を 持 つ こ と と な っ た。 1895–1945 年 の 50 年 間、 台 湾 は 日 本 統 治 下 と な る。
- 遼 東 半 島 (り ょ う と う は ん と う) K 中 国 東 北 部 (満 州) の 半 島。 下 関 条 約 第 2 条 で 当 初 日 本 に 割 譲 さ れ た が、 同 年 4 月 23 日 ロ シ ア・フ ラ ン ス・ド イ ツ の 三 国 干 渉 で 日 本 は こ れ を 清 国 に 返 還 し た。
- 三 国 干 渉 (さ ん ご く か ん し ょ う) K 1895 年 4 月 23 日、 ロ シ ア・フ ラ ン ス・ド イ ツ が 日 本 に 対 し、 遼 東 半 島 を 清 国 に 返 還 す る よ う 勧 告 し た 外 交 介 入。 日 本 は や む を 得 ず 同 年 11 月 に 返 還 し た が、 こ の 屈 辱 が 日 本 国 民 に 「臥 薪 嘗 胆 (が し ん し ょ う た ん)」 と い う 言 葉 を 流 行 ら せ、 10 年 後 の 日 露 戦 争 (1904–1905) へ の 動 機 と な っ た。
- 賠 償 金 2 億 両 (ば い し ょ う き ん 2 お く り ょ う) K 下 関 条 約 で 清 国 が 日 本 に 支 払 う こ と と さ れ た 賠 償 金。 約 3 億 1 千 万 円 (当 時)。 当 時 の 日 本 の 国 家 予 算 の 約 3 年 分。 こ の 賠 償 金 が 八 幡 製 鉄 所 (1901 年 操 業 開 始) な ど、 日 本 の 重 工 業 化 の 元 手 と な っ た。
- 朝 鮮 独 立 (ち ょ う せ ん ど く り つ) K 下 関 条 約 第 1 条 で「清 国 は 朝 鮮 国 が 完 全 無 欠 な る 独 立 自 主 の 国 で あ る こ と を 確 認 す る」 と 規 定。 こ れ に よ り 朝 鮮 は 清 国 か ら 独 立 し た が、 そ れ は 日 本 の 影 響 圏 へ と 入 る こ と を 意 味 し て い た。 1910 年 の 韓 国 併 合 へ と つ な が る。
考えてみよう
- 下 関 条 約 第 1 条 で「朝 鮮 の 独 立」 が 確 認 さ れ ま し た。 し か し こ れ は 朝 鮮 民 族 に と っ て の 真 の 独 立 だ っ た で し ょ う か。 そ の 後 15 年 後 の 韓 国 併 合 (1910) と 関 連 付 け て 考 え ま し ょ う。
- 下 関 条 約 で 台 湾 が 日 本 に 割 譲 さ れ ま し た。 こ れ は 日 本 に と っ て、 ま た 台 湾 に と っ て、 ど ん な 意 味 を 持 ち ま し た か?
- 三 国 干 渉 (1895) が 日 本 国 民 の 心 理 に 与 え た 影 響 を 考 え ま し ょ う。「臥 薪 嘗 胆」 と い う 流 行 語 と 10 年 後 の 日 露 戦 争 と の 関 係 は?
- 賠 償 金 2 億 両 (約 3 億 1 千 万 円) は、 当 時 の 日 本 の 国 家 予 算 の 約 3 年 分 で し た。 こ の 巨 額 の 資 金 が、 日 本 の そ の 後 の 産 業 化 に ど ん な 影 響 を 与 え た で し ょ う か?
- 下 関 条 約 を、 当 時 の 中 国 (清 国) と 朝 鮮 の 立 場 か ら 評 価 し て み ま し ょ う。
- 日 本 が ア ジ ア の 新 興 帝 国 と し て 登 場 し た こ の 1895 年 と、 そ の 50 年 後 の 1945 年 (敗 戦) を 結 ぶ 線 を 引 い て み ま し ょ う。
指導要領との対応
このページは、文部科学省「高等学校学習指導要領(平成30年告示)」日本史 第1学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。
- 日本史 (4)ウ — 国 際 関 係 の 緊 密 化 と 近 代 産 業 の 形 成
- 歴史総合 — 近 代 化 と 帝 国 主 義 ─ 東 ア ジ ア の 転 換
※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。
指導案 教員向け・授業展開の例
高1 日 本 史 で 明 治 後 期 「近 代 国 家 と 国 際 関 係」 単 元 と の 接 続 教 材。 下 関 条 約 は、 王 政 復 古 (1867)・五 箇 条 の 御 誓 文 (1868)・廃 藩 置 県 (1871)・大 日 本 帝 国 憲 法 (1889) に 続 く、 明 治 国 家 形 成 の 重 要 な 一 里 塚。 日 本 が ア ジ ア の 新 興 帝 国 と し て 登 場 し、 そ の 後 50 年 の 東 ア ジ ア 史 を 決 定 し た 条 約。
指導目標
- 下 関 条 約 の 内 容 を 理 解 す る
- 日 清 戦 争 (1894–1895) の 文 脈 を 把 握 す る
- 三 国 干 渉 と そ の 影 響 を 考 察 す る
- 後 の 日 露 戦 争・韓 国 併 合・台 湾 統 治 へ の つ な が り を 把 握 す る
授業の流れ
- 1時限・10分 日 清 戦 争 (1894–1895) の 経 過 を 確 認
- 1時限・25分 下 関 条 約 全 11 条 の 概 要 を 学 ぶ
- 1時限・15分 三 国 干 渉 (1895 年 4 月 23 日) を 解 説
- 2時限・20分 1895 年 か ら 1945 年 ま で の 東 ア ジ ア 史 を 50 年 で 概 観
- 2時限・20分 中 国・朝 鮮・台 湾 の 立 場 か ら の 視 点
- 2時限・10分 振 り 返 り
発問例・議論のポイント
- 「ア ジ ア の 新 興 帝 国 と な る」 こ と の 意 味 と は?
- 三 国 干 渉 へ の 屈 辱 と 日 露 戦 争 の 関 係
- 現 代 の 日 中 関 係・日 韓 関 係 と の つ な が り
発展課題
- 日 露 戦 争 (1904–1905) と ポ ー ツ マ ス 条 約
- 韓 国 併 合 (1910) ま で の 流 れ
- 台 湾 統 治 (1895–1945) の 詳 細
- 1895 年 の 中 国 知 識 人 (康 有 為・梁 啓 超) の 反 応
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出典・ライセンス
- 原文: 日本国 ・ 清国 (講和条約)「下 関 条 約 (1895) — 日 清 戦 争 の 終 結 と 東 ア ジ ア の 転 換」(1895年)
- 入力テキスト: 明治政府公文書 / 外務省外交史料館 (底本:「下関条約」(日清講和条約) 明治28年・1895 年 4 月 17 日 山 口 県 下 関 市 春 帆 楼 (し ゅ ん ぱ ん ろ う) で 調 印。 全 11 条。 公 文 書 と し て 著 作 権 法 第 13 条 に よ り 著 作 物 の 対 象 外 (公 有)。)
- 原文の権利: パブリックドメイン
- 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors