陰翳礼讃 (いんえい らいさん) 抜粋 — 谷崎潤一郎
高等学校 国語 第2学年 近代随筆日本美学比較文化論 目安 35 分
学習のめあて
- 谷崎潤一郎の代表的随筆を、原文に近い形で読む
- 「陰翳」「明暗」「金箔」など、日本美学の核心概念に触れる
- 西洋近代と日本伝統の対比という比較文化論の方法を学ぶ
- 自分の身の回りで「陰翳の美」を発見する
本文
本文(『陰翳礼讃』 谷崎潤一郎・冒頭 抜粋)
今 日 の 日本 の 家屋 は、西洋 の 建築 の 影響 を 受けて、可 能 な 限り 多く の 光 を 取り 入 れ よう と する。
ガラス の 窓、白い 壁、電気 の 灯火。── これら は、確かに 便利 で あ り、衛生 的 で も あ る。
だが、私 たち 日本人 が 本来 持って いた 美 の 感覚 と は、まったく 異なる 原理 に 立 つ もの で ある。日本 の 古い 家屋 を 思い 起こ し て み たま え。
深い 軒 (のき) の 影、薄暗い 床の間 (とこのま)、行灯 (あんどん) の ぼんやり と し た 光。── そ こ に 漆器 を 置 い た とき、初め て 漆 の 黒 は 本当 の 美 を 見せる。
明 る い 食卓 の 上 で 見る 漆器 は、ただ の 黒い 椀 に すぎ ない。 だ が、行灯 の もと で 見る とき、それ は 底 知れ ぬ 闇 を 湛 (たた) えた、宇宙 の 一片 と 化す。金屏風 (きん びょうぶ) も、蒔絵 (まきえ) も、同じ で あ る。
それら の 金 が、煌 (きら) めく の は、明 る い 部屋 で は ない。 薄暗い 部屋 の 中、ろうそく の 揺 ら ぐ 光 の もと で、金 は 不意 に 浮 か び 上 が り、闇 と 戯 (たわむ) れる の だ。ここ に、日本 の 美 の 本質 が ある。
美 は、物体 そ の もの に は な い。 物体 と 物体 と の 作 り 出 す 陰翳 の 綾 (あや)、明 と 暗 の 戯 れ に ある。ところ が、近代 西洋 の 美学 は、これ と 真逆 で ある。
すべて を 明 る く 照 ら し、すべて を は っ き り と 見せる。 影 を 排 除 し、輪郭 を く っ き り と させる。
これ は 「視覚 の 美学」 と は 言える が、それ で は 陰翳 が 与 え る 「想像 力 の 余地」 を 失 う。さらに 言 え ば、日本 建築 の 中 で、私 が もっとも 詩 的 だ と 感じ る の は、意外 に も 「厠 (かわや)」 ─ 便所 ─ で ある。
古 い 日本 家屋 の 厠 は、母屋 か ら 少 し 離 れ た、庭 に 面 し た 一隅 に あ り、薄 暗 く、静か で、外 の 樹 々 の 葉擦 れ や 鳥 の 声 が 聞 こ え る。
こ こ で 用 を 足 す 時 、私 は ふ し ぎ な ほ ど 心 が 落 ち 着 き、思 索 に 沈 む こ と が で き る。
近代 の 白タイル ・ 蛍光灯 ・ 換気扇 の 完備 さ れ た 西洋 式 ト イ レ で、こ う し た 「精神 的 安 ら ぎ」 が 得 ら れ る だ ろ う か。我 が 国 の 美学 は、要 す る に、「不足 を 楽 し む」 美学 で あ る。
完璧 に 明 る い 部屋 で は な く、薄 暗 い 部屋。
完璧 に 整 え ら れ た 庭 で は な く、わ ず か に 苔 む し た 石。
完璧 に 直線 の 柱 で は な く、自然 の 木目 を 残 し た 柱。
そ こ に、日本 人 が 千 年 以 上 か け て 磨 い て き た、独自 の 美 が あ る。
解説 ─ 「陰翳」 を 失 う 近代
谷崎 が 本書 を 書 い た 1933 年 (昭和 8 年) ─ 日本 は 急速 に 近代 化 し、 都市 に は 電灯 が 普及 し、 西洋 式 ホテル ・ 病院 ・ 学校 が 建設 さ れ て い た。
谷崎 は、こ の 「近代 化 の 速度」 に、強 い 違 和 感 を 抱 い た。
便利 さ や 衛生 と 引 き 換 え に、日本 人 が 千 年 以 上 か け て 磨 い て き た 美 の 感覚 が、急速 に 失 わ れ つ つ あ る と。
本書 は、決 し て 「近代 化 す べ き で な い」 と 主張 し て い る わ け で は な い。
谷崎 が 訴 え た の は、「近代 化 す る な ら、何 を 失 う か を 自覚 し ろ」 と い う こ と だ っ た。
「陰翳」 と は 何 か ─ 三 つ の 角度 か ら
| 角度 | 陰翳 と は | 西洋 近代 と の 対比 |
|---|---|---|
| 光 学 的 | 完全 な 明 で も、完全 な 暗 で も な い、中間 領域 | 明 と 暗 を 区別 す る 二元 論 |
| 美 学 的 | 「不足」 と 「想像 力」 を 残 す 美 | 「完璧」 と 「視覚」 の 美 |
| 哲 学 的 | 確定 を 拒 む、 曖昧 さ を 包 む | 輪郭 を 確定 さ せ る、 二項 対立 を 立 て る |
日本 美 の 核心 は、こ の 三 つ の 角度 に お い て、西洋 近代 の 原理 と 逆 を 行 く こ と に あ る。
「厠 の 美学」 ─ 谷崎 ら し い 視点
本書 の 中 で 特 に 有名 な の が、「厠 (便所) の 美」 を 論 じ た 一節 で あ る。
谷崎 は、近代 西洋 式 の 「白 タ イ ル ・ 蛍光灯」 の ト イ レ を 否定 し、古 い 日本 家屋 の 「薄 暗 く、庭 に 面 し、静寂 の 中 で 思 索 で き る」 厠 を 礼讃 し た。
彼 に と っ て、厠 は 単 な る 「排泄 の 場」 で は な く、 日本 建築 の 美 学 が 最 も 純粋 に 現 れ る 詩 的 空間 だ っ た の だ。
こ の 視点 は、現代 の 「ミ ニ マ リ ズ ム」 「ウ ェ ル ネ ス」 「マ イ ン ド フ ル ネ ス」 と も 通 じ る 部分 が あ る。
「最 も 機能 的 な 空間 が、最 も 美 し い と は 限 ら な い」 ─ こ れ は 21 世紀 の 設計 者 ・ デ ザ イ ナ ー に も 響 く 言葉 で あ る。
世界 で 読 ま れ る 『陰翳 礼讃』
本書 は、1977 年 に 米国 で 英訳 が 出 版 さ れ (Thomas J. Harper・Edward G. Seidensticker 訳 "In Praise of Shadows")、欧米 の 建築 家 ・ デ ザ イ ナ ー ・ 思想 家 に 強 い 影響 を 与 え た。
- 建築 家 Frank Lloyd Wright は、本書 の 思想 と 共通 す る 部分 を 自分 の 「Falling Water (落水 荘)」 設計 に 反映 し た と 言 わ れ る。
- デ ザ イ ナ ー 原研哉 (はら けんや) は、無印 良品 の 「白」 の 哲学 を、谷崎 の 「陰翳」 と 対 比 し て 論 じ た。
- 建築 家 Peter Zumthor (スイス) の 暗 い 光 を 用 い た 建築 (Thermal Baths Vals 等) は、谷崎 の 美学 と 響 き 合 っ て い る。
昭和 8 年 に 日本 で 書 か れ た 一篇 が、半 世紀 後 に 翻訳 さ れ、世界 の 建築 ・ デ ザ イ ン の 言説 を 変 え た。
あ な た の 「陰翳」 を 探 し て
谷崎 の 美学 は、行灯 や 漆器 や 古い 家 だ け の 話 で は な い。
今 こ こ に、君 の 周 り に も、「陰翳」 は あ る。
- 夕暮 れ の 教室 の、誰 も い な い 黒板 の 表面
- 夜 の 街灯 の 下 に 浮 か ぶ、 古 い 銀杏 の 木 の 影
- 雨 の 後 の 石畳 に 映 る、 街 の 灯
- カ フ ェ の 木目 の テー ブ ル に 落 ち る、ペ ン ダ ン ト ラ イ ト の 影
そ れ ら す べ て の 中 に、谷崎 が 90 年 前 に 教 え て く れ た 「明 と 暗 の 戯 れ」 を、君 自身 が 発見 で き る か ど う か。
そ れ こ そ が、こ の 随筆 を 読 む 真 の 意 義 で あ る。
語句の意味
各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について
- 谷崎潤一郎 (たにざき じゅんいちろう) K 1886–1965。東京日本橋生まれ。大正・昭和を代表する小説家。代表作『春琴抄』『細雪』『鍵』『瘋癲老人日記』など。日本伝統美と耽美主義を融合した独特の世界を描いた。ノーベル文学賞候補となること数回。本作『陰翳礼讃』は彼の美学的綱領とも言える随筆。
- 陰翳 (いんえい) K 物の陰・かげり・暗がり。明るくはないが、完全な闇でもない、微妙な「明と暗の中間領域」のこと。谷崎はこの「陰翳」こそ、日本美の核心であると主張した。
- 礼讃 (らいさん) K ほめたたえること。「陰翳礼讃」とは「陰翳を讃 (たた) える」の意。
- 漆器 (しっき) K 木地に漆 (うるし) を塗り重ねた工芸品。お椀・お盆・重箱など。 谷崎は「漆の黒は、ろうそくの揺らぐ光の中でこそ、その本当の美しさを見せる」と説いた。
- 蒔絵 (まきえ) K 漆器の表面に、金粉・銀粉を蒔いて模様を描いた装飾技法。 谷崎は「金 (きん) は陰翳の中でこそ、真に輝く」と書いた。
- 金屏風 (きん びょうぶ) K 金箔を貼り付けた屏風。室町・桃山期の絵画によく使われた。谷崎は「金屏風は、ろうそくの灯のうす明かりの中でこそ、その意味を発揮する」と書いた。
- 行灯 (あんどん) K 油皿に芯を浮かべて燃やす、日本の伝統的な照明器具。 紙を貼った木枠の中に光源があり、ほの暗い光を放つ。 谷崎が美の理想とした光。
- 電気 (でんき) ・ 電灯 (でんとう) K 谷崎は、明治以降 日本に普及した電灯について、「日本の家屋を、本来の美 (陰翳) から引き離す」と批判した。
- 厠 (かわや) ・ 雪隠 (せっちん) K 便所。 谷崎は本書の有名な一節で、「日本建築 の 厠 こそ、もっとも 詩的 な 空間 で ある」 と書いた。 薄暗く、 庭に面し、静寂 の 中 で 思索 できる ─ それ が 谷崎 の 理想 だった。
- 比較文化論 (ひかく ぶんかろん) K 異なる文化 (例 ─ 西洋 と 日本、近代 と 伝統) を 対比 し、それぞれ の 特色 を 浮き彫り に する 論考 の 方法。 谷崎『陰翳礼讃』 は、 日本 の 比較文化論 の 古典 で ある。
考えてみよう
- 谷崎 は 「美 は 物体 に ある の で は なく、物体 と 物体 と の 作り出す 陰翳 の 綾 (あや) に ある」 と 書きました。 この 主張 を、自分 の 言葉 で 言い 換えて み ましょう。
- 本書 が 書かれた の は 1933 年 (昭和 8 年)。 当時 の 日本 が 急速 に 西洋化 ・ 近代化 し て いた 状況 を 踏まえ、なぜ 谷崎 は 「陰翳 礼讃」 を 書 い た の で しょう か。
- 「金屏風 や 蒔絵 は、ろうそく の 灯 の もと で こそ、真 の 美 を 発揮 する」 と 谷崎 は 書きます。 これ は どんな 美学 を 意味 する でしょう か。 西洋 の 「明 る さ こ そ 美」 と いう 考え 方 と 対比 し て み ましょう。
- あなた の 身 の 回り に、「陰翳 の 美」 を 発見 できる 場所 は あ り ます か? (例: 古い 神社・寺 ・ 茶室 ・ 和室 など)
- 現代 の 日本人 は、もは や 「行灯 の 文化」 に は 戻れ ない で しょう。 で は、谷崎 の 「陰翳 美学」 は、どう やって 現代 に 受け継 げる でしょう か?
- 海外 (西洋) で は 近年、「Wabi-Sabi (侘 び 寂 び)」 や 「Ikigai (生きがい)」 など、日本 の 美学 が 注目 さ れて います。 谷崎 の 『陰翳 礼讃』 は、 現代 の 国際 的 文脈 で どう 読 ま れて いる で しょう か?
指導要領との対応
このページは、文部科学省「高等学校学習指導要領(平成30年告示)」国語 第2学年の 以下の指導事項を意識して編集しています。
- 文学国語 — 近代以降の随筆を読み、思想と表現の特色を捉える
- 論理国語 — 比較文化論の論理構造を捉える
※ 文部科学省告示の本文ではなく、編集者による要旨の言い換えです。 正確な指導事項は文部科学省の公式資料を参照してください。
指導案 教員向け・授業展開の例
高2 国語 で 谷崎潤一郎 の 代表的 随筆 を 読む。 西洋 と 日本、明 と 暗、近代 と 伝統 の 対比 を 通じて、文化論 ・ 美学 ・ 比較文化論 の 入門 を 行う。 自分 の 身近 な 空間 (祖父母 の 家、寺、茶室 等) で 「陰翳 の 美」 を 探す 体験 学習 と 組み合わせ ると 効果 が 高い。
指導目標
- 谷崎 の 文体 と 思想 を 体感 する
- 「陰翳」 という 美学 概念 を 理解 する
- 比較文化論 の 方法 を 学ぶ
- 現代 に 残る 日本 美学 を 発見 する
授業の流れ
- 1時限・10分 谷崎潤一郎 の 経歴 と 代表作 を 確認
- 1時限・25分 本文 を 音読 ・ 通読
- 1時限・15分 「陰翳」 の 概念 を 自分 の 言葉 で 説明
- 2時限・15分 西洋 (明 ・ 直接 ・ 機能) と 日本 (暗 ・ 間接 ・ 余白) の 対比 を 図解
- 2時限・15分 自分 の 身 の 回り の 「陰翳」 を 写真 で 集めて 共有
- 2時限・15分 海外 で の 日本 美学 の 受容 を 調べる
- 2時限・5分 振り返り
発問例・議論のポイント
- 電気 を 消した 部屋 で、何 が 美しく 見える か?
- 「明 る さ」 と 「暗 さ」、 ど ち ら が 「美」 に 近 い か?
- 現代 デザイン (iPhone、Muji など) は、谷崎 の 美学 と 関係 が ある か?
発展課題
- 谷崎『春琴抄』『細雪』 を 読む
- 日本 庭園 ・ 茶室 を 訪れる
- Wabi-Sabi (侘 び 寂 び) の 概念 を 調べる
- 海外 の Muji・Uniqlo 評価 と 関連 付ける
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