高瀬舟 (たかせぶね) — 抜粋 の表紙イラスト

高瀬舟 (たかせぶね) — 抜粋

中学校 国語 第2学年 近代小説倫理B 読むこと 目安 25 分 JLPT N2 漢字 第7学年 語彙 中級 難易度 ★★★☆☆

作者
森鴎外 (もり おうがい)(1862–1922)
原作発表
1916 年(大正5年 (1916))
出典
青空文庫
底本:森鴎外『中央公論』(1916 年 1 月号) 発表の短編小説『高瀬舟』の核心部分を抜粋。

学習のめあて

  • 森鴎外の代表的短編を読む
  • 「足る (たる) を 知る」という思想に触れる
  • 安楽死をめぐる根源的問いに、明治末の眼差しから出会う
  • 抜粋形式の小説を読み解く力をつける

本文

原文 (抜粋・冒頭〜中盤)

高瀬舟たかせぶね京都きょうと高瀬川たかせがわ上下のぼりくだりする小舟こぶねである。徳川時代とくがわ じだいに、京都きょうと罪人ざいにん遠島えんとうもうわたされる本人ほんにん親類しんるい一人ひとりして、よるってから奉行所ぶぎょうしょから大坂おおさかまわされるならわしであった。

あるはるゆうべのことであった。喜助きすけという三十さんじゅうさいばかりのおとこが、同心どうしん羽田はねだ庄兵衛しょうべえ護送ごそうされて、高瀬舟たかせぶねせられた。おとうとごろしのつみで、遠島えんとうもうわたされたのである。

庄兵衛しょうべえ不思議ふしぎおもった。普通ふつう、こうして島流しまながしになるものは、くか、うらみごとをうか、だまってしずみこむか、いずれにせよかなしそうにしているのがつねである。ところが喜助きすけは、しずかに、いやむしろれやかなかおふねっている。

庄兵衛しょうべえはとうとううてみた。「喜助きすけ、おまえはどうしてそんなにうれしそうなかおをしているのだ。しまながされるうえではないか。」

喜助きすけこたえた。「ご無理むりもっともでございます。ですが、わたくしのこれまでのうえおもいますと、これからはしまでくらすのも、大坂おおさかまちでくらすのも、おなじことなのでございます。」

喜助きすけおさなくして両親りょうしんうしない、おとうと二人ふたりらしてきた。仕事しごと力仕事ちからしごとで、はたらいてもはたらいても、べていくのがやっとであった。かねあまらせたおぼえはない。

しまでは御上おかみから毎日まいにち仕事しごとくださるといております。べていく心配しんぱいがいらないのでございます。それに御上おかみから二百文にひゃくもん頂戴つかまつって、これはしま使つかえとおっしゃいました。二百文にひゃくもんもの大金たいきんを、はじめて自分じぶんものとしてつことができたのでございます。」

庄兵衛しょうべえむねかれるようなおもいがした。自分じぶん同心どうしんとして毎月まいつき俸禄ほうろくいただいている。けれども家計かけいつねくるしく、いつも不足ふそくかんじている。喜助きすけ二百文にひゃくもん大金たいきんかんじ、それでりている。

たして自分じぶん喜助きすけと、どちらがしあわせか」 ―― 庄兵衛しょうべえかんがえこんだ。

そして、弟殺しの真相

庄兵衛は、ためらいながらも、喜助の弟殺しの真相を問うた。

喜助は語った。弟は病で寝こみ、もはや回復の見込みはなかった。激しい苦痛に苦しみながらも、自分のために兄が働かねばならないことを心苦しく思っていた。

ある日、弟は喉に剃刀 (かみそり) を当てて自害を試みた。だが力が足りず、傷を負ったまま生き残り、なお苦しみつづける。喜助が帰宅したとき、弟は「楽にしてくれ」と懇願した。

喜助は ―― 弟の苦しみに耐えかね、その剃刀を抜き、弟の生を終わらせたのである。

庄兵衛は、この話を聞いて、判断に迷った。これは「殺人」なのか、それとも「慈悲 (じひ)」なのか。御上の法は、「殺した」と判じている。けれども庄兵衛の心は、それを完全には肯 (うべな) えない。

舟は静かに大坂へ下る。月が高瀬川を照らしている。

※ 本教材は森鴎外『高瀬舟』のうち、核心部分のみを編集者が要約・抜粋しています。全文は 青空文庫 でご覧ください。

解説:二つの問い

① 知足 (ちそく) — 足ることを知る

喜助は、罪人として島流しになるにもかかわらず、穏やかでいられる。なぜか? これまで自分が体験したことのない安定 ―― 毎日の仕事と二百文 ―― を、初めて手にできたから。

彼の人生は、極度の貧しさに支配されていた。だから「島流し」も「島での労働」も、彼にとっては 改善 なのだ。

庄兵衛は、これを聞いて自分を振り返る。同心という公務員の俸禄を毎月もらいながら、常に「足りない、足りない」と感じている自分。喜助の方が、はるかに 「足ることを知って」 いる。

② 慈悲殺の倫理

弟殺しの真相は、医学が未発達だった時代の 「家族による安楽死」 である。 苦しみつづける弟が、自ら剃刀で命を絶とうとし、果たせず、兄に「楽にしてくれ」と頼む。兄はその剃刀を抜く。

法は「殺人」と裁く。だが、それは本当に殺人なのか。喜助の動機は、純粋な 慈悲 である。

森鴎外は、明治末期にこの問いを書いた。100 年以上たった今でも、「安楽死」「尊厳死」をめぐる議論は、世界中で続いています。法律と道徳、家族と個人、生と死 ―― 重い問いを、淡々とした明治の文体で投げかけてくる、近代日本文学の傑作です。

語句の意味

各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について

  • 森鴎外 (もり おうがい) K 1862–1922。本名・林太郎。陸軍軍医総監・小説家・翻訳家。代表作『舞姫』『阿部一族』『高瀬舟』。夏目漱石と並ぶ明治の文豪。
  • 高瀬舟 (たかせぶね) K 京都の高瀬川 (たかせがわ) を行き来した、底が浅く荷物を運ぶための舟。江戸時代、罪人を大坂へ護送するのにも使われた。
  • 喜助 (きすけ) K 主人公の罪人。30 歳ばかりの男。弟を殺した咎 (とが) で島流しになる。
  • 庄兵衛 (しょうべえ) K 喜助を護送する同心 (どうしん。江戸時代の下級警察役人)。
  • 知足 (ちそく) K 「足ることを知る」。今あるもので満足する心境。仏教・儒教の徳目。
  • 島流し (しまながし) K 江戸時代の刑罰の一つ。罪人を遠い島 (八丈島など) に送って終身働かせる。
  • 二百文 (にひゃくもん) K 「文 (もん)」は江戸時代の貨幣単位。200 文は当時の労働者の数日分の手間賃程度。喜助には十分な額に感じられた。

考えてみよう

  1. 喜助が、島流しという 重い 罰 を 受けるのに、なぜ 穏やかでいられたのか。本文から 3 つの理由 を 挙げてみましょう。
  2. 「お上の二百文を頂戴いたしました」 —— 喜助が この お金を こんなにも 感謝した 理由を、彼の これまでの 生活 から 考えてみましょう。
  3. 庄兵衛が「果たして 喜助 と 自分 と、どちらが 幸せか」と 思った理由は 何でしょうか。同心 (公務員) の生活と、罪人 喜助 の生活を 比べて 考えましょう。
  4. 弟を「殺した」と言っても、それは 苦しんでいる 弟を 楽にして あげたい という 気持ちから でした。これは 殺人 でしょうか、それとも 慈悲 (じひ) でしょうか。
  5. 明治末期 (1916 年) に、なぜ森鴎外は「安楽死」を主題にした 小説を 書いたのでしょうか。当時の社会と、現代の私たちが直面する 倫理的問いを 比べて考えましょう。
指導案 教員向け・授業展開の例

森鴎外『高瀬舟』の核心部分を読み、「知足」と「安楽死」という 二つの 倫理的問い に 出会う。 100 年前の問いが、現代でも 答えの出ない 重い 問題であることを 体感する。

授業時数
2時限 (各50分)
準備
本文 (抜粋)、森鴎外の年譜、現代の安楽死議論の新聞記事 (任意)

指導目標

  • 森鴎外と明治末期の小説背景を理解する
  • 「知足 (ちそく)」と「安楽死」 という 二つのテーマを 読み取れる
  • 「殺人」と「慈悲殺」の境界について 自分の意見を 表明できる

授業の流れ

  1. 1時限・5分 森鴎外の生涯と『高瀬舟』の位置づけ
  2. 1時限・25分 本文 (抜粋) を音読し、内容を理解
  3. 1時限・20分 「喜助はなぜ穏やかか」「庄兵衛はなぜ動揺するか」を議論
  4. 2時限・20分 「弟の願いを叶えることは、殺人か慈悲か」を ペア / グループ で議論
  5. 2時限・20分 「現代の安楽死議論」と『高瀬舟』を 比較
  6. 2時限・10分 振り返り、自分の意見を 200 字でまとめる

発問例・議論のポイント

  • 「足ることを知る」とは、何を諦めることか、何を得ることか
  • 他人の苦しみを終わらせる権利は、家族にあるのか
  • 明治末の鴎外の視線と、現代の私たちの視線の違い

発展課題

  • 全文を青空文庫で通読
  • 森鴎外『最後の一句』『阿部一族』など他の歴史小説も読む
  • 現代の安楽死議論 (オランダ・ベルギーの制度) を調査

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出典・ライセンス

  • 原文: 森鴎外 (もり おうがい)「高瀬舟 (たかせぶね) — 抜粋」(1916年)
  • 入力テキスト: 青空文庫 (底本:森鴎外『中央公論』(1916 年 1 月号) 発表の短編小説『高瀬舟』の核心部分を抜粋。)
  • 原文の権利: パブリックドメイン
  • 編集・語注・発問・解説: CC BY 4.0 © project_procopios contributors