高瀬舟 (たかせぶね) — 抜粋
中学校 国語 第2学年 近代小説倫理B 読むこと 目安 25 分 JLPT N2 漢字 第7学年 語彙 中級 難易度 ★★★☆☆
学習のめあて
- 森鴎外の代表的短編を読む
- 「足る (たる) を 知る」という思想に触れる
- 安楽死をめぐる根源的問いに、明治末の眼差しから出会う
- 抜粋形式の小説を読み解く力をつける
本文
原文 (抜粋・冒頭〜中盤)
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に、京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類一人を呼び出して、夜に入ってから奉行所から大坂へ廻される慣わしであった。
ある春の夕のことであった。喜助という三十歳ばかりの男が、同心羽田庄兵衛に護送されて、高瀬舟に乗せられた。弟殺しの罪で、遠島を申し渡されたのである。
庄兵衛は不思議に思った。普通、こうして島流しになる者は、泣くか、恨みごとを言うか、黙って沈みこむか、いずれにせよ悲しそうにしているのが常である。ところが喜助は、静かに、いやむしろ晴れやかな顔で舟に乗っている。
庄兵衛はとうとう問うてみた。「喜助、お前はどうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのだ。島へ流される身の上ではないか。」
喜助は答えた。「ご無理ご尤もでございます。ですが、わたくしのこれまでの身の上を思いますと、これからは島でくらすのも、大坂の町でくらすのも、同じことなのでございます。」
喜助は幼くして両親を失い、弟と二人で暮らしてきた。仕事は力仕事で、働いても働いても、食べていくのがやっとであった。金を余らせた覚えはない。
「島では御上から毎日の仕事を下さると聞いております。食べていく心配がいらないのでございます。それに御上から二百文頂戴仕って、これは島で使えと仰いました。二百文もの大金を、初めて自分の物として持つことができたのでございます。」
庄兵衛は胸を突かれるような思いがした。自分は同心として毎月俸禄を頂いている。けれども家計は常に苦しく、いつも不足を感じている。喜助は二百文を大金と感じ、それで満ち足りている。
「果たして自分と喜助と、どちらが幸せか」 ―― 庄兵衛は考えこんだ。
そして、弟殺しの真相
庄兵衛は、ためらいながらも、喜助の弟殺しの真相を問うた。
喜助は語った。弟は病で寝こみ、もはや回復の見込みはなかった。激しい苦痛に苦しみながらも、自分のために兄が働かねばならないことを心苦しく思っていた。
ある日、弟は喉に剃刀 (かみそり) を当てて自害を試みた。だが力が足りず、傷を負ったまま生き残り、なお苦しみつづける。喜助が帰宅したとき、弟は「楽にしてくれ」と懇願した。
喜助は ―― 弟の苦しみに耐えかね、その剃刀を抜き、弟の生を終わらせたのである。
庄兵衛は、この話を聞いて、判断に迷った。これは「殺人」なのか、それとも「慈悲 (じひ)」なのか。御上の法は、「殺した」と判じている。けれども庄兵衛の心は、それを完全には肯 (うべな) えない。
舟は静かに大坂へ下る。月が高瀬川を照らしている。
※ 本教材は森鴎外『高瀬舟』のうち、核心部分のみを編集者が要約・抜粋しています。全文は 青空文庫 でご覧ください。
解説:二つの問い
① 知足 (ちそく) — 足ることを知る
喜助は、罪人として島流しになるにもかかわらず、穏やかでいられる。なぜか? これまで自分が体験したことのない安定 ―― 毎日の仕事と二百文 ―― を、初めて手にできたから。
彼の人生は、極度の貧しさに支配されていた。だから「島流し」も「島での労働」も、彼にとっては 改善 なのだ。
庄兵衛は、これを聞いて自分を振り返る。同心という公務員の俸禄を毎月もらいながら、常に「足りない、足りない」と感じている自分。喜助の方が、はるかに 「足ることを知って」 いる。
② 慈悲殺の倫理
弟殺しの真相は、医学が未発達だった時代の 「家族による安楽死」 である。 苦しみつづける弟が、自ら剃刀で命を絶とうとし、果たせず、兄に「楽にしてくれ」と頼む。兄はその剃刀を抜く。
法は「殺人」と裁く。だが、それは本当に殺人なのか。喜助の動機は、純粋な 慈悲 である。
森鴎外は、明治末期にこの問いを書いた。100 年以上たった今でも、「安楽死」「尊厳死」をめぐる議論は、世界中で続いています。法律と道徳、家族と個人、生と死 ―― 重い問いを、淡々とした明治の文体で投げかけてくる、近代日本文学の傑作です。
語句の意味
各見出し語をクリックすると、外部辞書で詳しい意味を調べられます。 ※ Wiktionary について
- 森鴎外 (もり おうがい) K 1862–1922。本名・林太郎。陸軍軍医総監・小説家・翻訳家。代表作『舞姫』『阿部一族』『高瀬舟』。夏目漱石と並ぶ明治の文豪。
- 高瀬舟 (たかせぶね) K 京都の高瀬川 (たかせがわ) を行き来した、底が浅く荷物を運ぶための舟。江戸時代、罪人を大坂へ護送するのにも使われた。
- 喜助 (きすけ) K 主人公の罪人。30 歳ばかりの男。弟を殺した咎 (とが) で島流しになる。
- 庄兵衛 (しょうべえ) K 喜助を護送する同心 (どうしん。江戸時代の下級警察役人)。
- 知足 (ちそく) K 「足ることを知る」。今あるもので満足する心境。仏教・儒教の徳目。
- 島流し (しまながし) K 江戸時代の刑罰の一つ。罪人を遠い島 (八丈島など) に送って終身働かせる。
- 二百文 (にひゃくもん) K 「文 (もん)」は江戸時代の貨幣単位。200 文は当時の労働者の数日分の手間賃程度。喜助には十分な額に感じられた。
考えてみよう
- 喜助が、島流しという 重い 罰 を 受けるのに、なぜ 穏やかでいられたのか。本文から 3 つの理由 を 挙げてみましょう。
- 「お上の二百文を頂戴いたしました」 —— 喜助が この お金を こんなにも 感謝した 理由を、彼の これまでの 生活 から 考えてみましょう。
- 庄兵衛が「果たして 喜助 と 自分 と、どちらが 幸せか」と 思った理由は 何でしょうか。同心 (公務員) の生活と、罪人 喜助 の生活を 比べて 考えましょう。
- 弟を「殺した」と言っても、それは 苦しんでいる 弟を 楽にして あげたい という 気持ちから でした。これは 殺人 でしょうか、それとも 慈悲 (じひ) でしょうか。
- 明治末期 (1916 年) に、なぜ森鴎外は「安楽死」を主題にした 小説を 書いたのでしょうか。当時の社会と、現代の私たちが直面する 倫理的問いを 比べて考えましょう。
指導案 教員向け・授業展開の例
森鴎外『高瀬舟』の核心部分を読み、「知足」と「安楽死」という 二つの 倫理的問い に 出会う。 100 年前の問いが、現代でも 答えの出ない 重い 問題であることを 体感する。
指導目標
- 森鴎外と明治末期の小説背景を理解する
- 「知足 (ちそく)」と「安楽死」 という 二つのテーマを 読み取れる
- 「殺人」と「慈悲殺」の境界について 自分の意見を 表明できる
授業の流れ
- 1時限・5分 森鴎外の生涯と『高瀬舟』の位置づけ
- 1時限・25分 本文 (抜粋) を音読し、内容を理解
- 1時限・20分 「喜助はなぜ穏やかか」「庄兵衛はなぜ動揺するか」を議論
- 2時限・20分 「弟の願いを叶えることは、殺人か慈悲か」を ペア / グループ で議論
- 2時限・20分 「現代の安楽死議論」と『高瀬舟』を 比較
- 2時限・10分 振り返り、自分の意見を 200 字でまとめる
発問例・議論のポイント
- 「足ることを知る」とは、何を諦めることか、何を得ることか
- 他人の苦しみを終わらせる権利は、家族にあるのか
- 明治末の鴎外の視線と、現代の私たちの視線の違い
発展課題
- 全文を青空文庫で通読
- 森鴎外『最後の一句』『阿部一族』など他の歴史小説も読む
- 現代の安楽死議論 (オランダ・ベルギーの制度) を調査
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