原文 (抜粋・冒頭〜中盤)
高瀬舟は京都の高瀬川を上下する小舟である。徳川時代に、京都の罪人が遠島を申し渡されると、本人の親類一人を呼び出して、夜に入ってから奉行所から大坂へ廻される慣わしであった。
ある春の夕のことであった。喜助という三十歳ばかりの男が、同心羽田庄兵衛に護送されて、高瀬舟に乗せられた。弟殺しの罪で、遠島を申し渡されたのである。
庄兵衛は不思議に思った。普通、こうして島流しになる者は、泣くか、恨みごとを言うか、黙って沈みこむか、いずれにせよ悲しそうにしているのが常である。ところが喜助は、静かに、いやむしろ晴れやかな顔で舟に乗っている。
庄兵衛はとうとう問うてみた。「喜助、お前はどうしてそんなに嬉しそうな顔をしているのだ。島へ流される身の上ではないか。」
喜助は答えた。「ご無理ご尤もでございます。ですが、わたくしのこれまでの身の上を思いますと、これからは島でくらすのも、大坂の町でくらすのも、同じことなのでございます。」
喜助は幼くして両親を失い、弟と二人で暮らしてきた。仕事は力仕事で、働いても働いても、食べていくのがやっとであった。金を余らせた覚えはない。
「島では御上から毎日の仕事を下さると聞いております。食べていく心配がいらないのでございます。それに御上から二百文頂戴仕って、これは島で使えと仰いました。二百文もの大金を、初めて自分の物として持つことができたのでございます。」
庄兵衛は胸を突かれるような思いがした。自分は同心として毎月俸禄を頂いている。けれども家計は常に苦しく、いつも不足を感じている。喜助は二百文を大金と感じ、それで満ち足りている。
「果たして自分と喜助と、どちらが幸せか」 ―― 庄兵衛は考えこんだ。
そして、弟殺しの真相
庄兵衛は、ためらいながらも、喜助の弟殺しの真相を問うた。
喜助は語った。弟は病で寝こみ、もはや回復の見込みはなかった。激しい苦痛に苦しみながらも、自分のために兄が働かねばならないことを心苦しく思っていた。
ある日、弟は喉に剃刀 (かみそり) を当てて自害を試みた。だが力が足りず、傷を負ったまま生き残り、なお苦しみつづける。喜助が帰宅したとき、弟は「楽にしてくれ」と懇願した。
喜助は ―― 弟の苦しみに耐えかね、その剃刀を抜き、弟の生を終わらせたのである。
庄兵衛は、この話を聞いて、判断に迷った。これは「殺人」なのか、それとも「慈悲 (じひ)」なのか。御上の法は、「殺した」と判じている。けれども庄兵衛の心は、それを完全には肯 (うべな) えない。
舟は静かに大坂へ下る。月が高瀬川を照らしている。
※ 本教材は森鴎外『高瀬舟』のうち、核心部分のみを編集者が要約・抜粋しています。全文は 青空文庫 でご覧ください。
解説:二つの問い
① 知足 (ちそく) — 足ることを知る
喜助は、罪人として島流しになるにもかかわらず、穏やかでいられる。なぜか? これまで自分が体験したことのない安定 ―― 毎日の仕事と二百文 ―― を、初めて手にできたから。
彼の人生は、極度の貧しさに支配されていた。だから「島流し」も「島での労働」も、彼にとっては 改善 なのだ。
庄兵衛は、これを聞いて自分を振り返る。同心という公務員の俸禄を毎月もらいながら、常に「足りない、足りない」と感じている自分。喜助の方が、はるかに 「足ることを知って」 いる。
② 慈悲殺の倫理
弟殺しの真相は、医学が未発達だった時代の 「家族による安楽死」 である。 苦しみつづける弟が、自ら剃刀で命を絶とうとし、果たせず、兄に「楽にしてくれ」と頼む。兄はその剃刀を抜く。
法は「殺人」と裁く。だが、それは本当に殺人なのか。喜助の動機は、純粋な 慈悲 である。
森鴎外は、明治末期にこの問いを書いた。100 年以上たった今でも、「安楽死」「尊厳死」をめぐる議論は、世界中で続いています。法律と道徳、家族と個人、生と死 ―― 重い問いを、淡々とした明治の文体で投げかけてくる、近代日本文学の傑作です。