原文 — 第一章「天皇」(抜粋)
以下は、大日本帝国憲法 第一章「天皇」のうち、特に重要な第1条〜第7条、および第11条までを掲げます。当時の漢文調表記のままで、読みやすいよう要所に振り仮名を補っています。
第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第二条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第四条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第五条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第六条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第七条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会及衆議院ノ解散ヲ命ス
……
第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
— 大日本帝国憲法(明治22年=1889年2月11日発布)
第一章のかなめ — 五つの条文を読む
第1条 「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」
明治憲法の根本規定。「大日本帝国」という国の名称、「万世一系の天皇」という統治主体、「之を統治す」という統治の事実宣言の三つから成る、わずか一文の中に明治国家の核心が凝縮されています。
「万世一系」とは、神武天皇以来、一つの皇統が連綿と続いてきたとする観念で、古事記・日本書紀の神話を歴史的事実として扱う立場に立っています。本教材「天孫降臨」、「神武東征」と直接つながる思想です。
第3条 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」
戦前を象徴する有名な条文。「神聖(しんせい)にして侵すべからず」——天皇は法的批判の対象から完全に外され、神格化される。これは戦前の「不敬罪」(皇室への批判・無礼を処罰する刑法上の罪、1947年廃止)の憲法上の根拠でした。
「神聖」という言葉自体が、宗教的な響きをもっています。教育勅語の「天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と並べて読むと、明治国家がいかに天皇を法的・道徳的・宗教的に至高の存在として位置づけたかが見えてきます。
第4条 「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」
明治憲法の体制的性格を端的に示す条文。「天皇は国の元首」「統治権を総攬(そうらん、すべて掌握する)」と宣言したうえで、「此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ(この憲法の規定に従ってこれを行う)」と付け加えます。
この最後の一句が重要です。これがなければ「絶対君主制」になりますが、「憲法の規定に従う」という条件が付くことで、形式的には「立憲君主制」となるのです。ただし、「憲法の規定」自体が天皇の絶大な権限を保証しているため、実質的には「外見的立憲制」と評されることがあります。
第5条 「天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ」
立法権についての規定。注目すべきは、立法権の主体は議会ではなく天皇であり、議会は「協賛(同意・賛成)」する立場に置かれている点です。日本国憲法第41条「国会は、国の唯一の立法機関である」と比べると、決定的な違いが見えてきます。
| 大日本帝国憲法 第5条 | 日本国憲法 第41条 | |
|---|---|---|
| 立法権の主体 | 天皇 | 国会 |
| 議会の位置 | 天皇の立法権に「協賛」する | 「国の唯一の立法機関」 |
第11条 「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」
軍隊の指揮権についての規定。「統帥(とうすい)」とは、軍を統率・指揮することです。問題は、これが第55条「国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」(内閣の輔弼責任)と区別されたために、後に「統帥権の独立」として、軍部が内閣や帝国議会の統制を拒む根拠となったことです。
1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約をめぐる「統帥権干犯問題」は、その典型でした。浜口雄幸内閣が条約に調印したことを、海軍と野党(政友会)が「統帥権の干犯(侵害)だ」と激しく攻撃。浜口首相は同年11月に右翼青年に狙撃され、翌年死去します。この事件以降、軍部の政治介入は加速し、五・一五事件(1932年)、二・二六事件(1936年)、日中戦争(1937年)、太平洋戦争(1941年)へと、日本は急速に軍国主義化していきます。明治憲法体制が、その制度的欠陥のゆえに、自らの崩壊を準備した過程です。
歴史の窓 — 1889年2月11日、憲法発布の日
明治22年(1889年)2月11日、東京宮城(皇居)で大日本帝国憲法の発布式典が挙行されました。明治天皇から内閣総理大臣・黒田清隆に憲法が「下賜」される形での発布でした。「欽定憲法(きんていけんぽう、君主が定める憲法)」として、上から国民に与えられる、という形式です。
この日は、明治政府が1872年に制定した「紀元節」——神武天皇の即位日とされる2月11日——にあえて合わせて選ばれました。「神武天皇以来、万世一系の天皇統治」という第1条の理念を、儀礼の日付からも強調する政治的演出です。なお、紀元節は戦後1948年にいったん廃止されましたが、1966年に「建国記念の日」として復活し、現在も2月11日は国民の祝日です。
歴史の窓 — 起草の経緯と「お雇い外国人」
明治政府は、近代国家としての日本に憲法が必要なことを早くから認識していました。1881年(明治14年)、「明治十四年の政変」を経て、政府は「10年後(1890年)に国会を開く」と詔書(しょうしょ)で公約。これに伴う憲法調査として、伊藤博文を中心とする使節団がヨーロッパへ派遣されました(1882–83年)。
伊藤は、イギリス(議院内閣制)、フランス(共和制)、ドイツ(プロイセン)など、各国の憲法を比較しました。最終的に選ばれたのは、プロイセン憲法(1850年)を主要なモデルとする路線です。これは、君主の権限を強く保ちつつ、議会制も導入する「君主主義的立憲制」で、当時の日本政府が望んだ「強い天皇制と適度な議会制」の組み合わせに合致しました。
帰国後、伊藤は井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らと共に、東京湾の夏島(横須賀)の山荘などで起草作業を進めました。お雇い外国人として、ドイツ人法学者ヘルマン・ロエスレルが助言にあたりました。1888年に枢密院で審議、1889年2月11日に発布されました。
歴史の窓 — アジア最初の近代憲法
1889年当時、近代憲法を持つアジアの国家は、日本だけでした。同時代のアジアを見渡すと:
- 清朝(中国) 憲法はまだなく、1908年に「欽定憲法大綱」、1911年に憲法草案が出されるが、辛亥革命で清朝自体が崩壊。
- 李氏朝鮮 憲法はなく、君主制のもとで近代化が遅れる。1910年に日本に併合される。
- オスマン帝国(トルコ) 1876年憲法(ミドハト憲法)があったが、1878年に停止され、1908年まで議会開催されず。
- タイ(シャム) 絶対王政が続く。憲法の制定は1932年。
- インド イギリス植民地下。独自の憲法を持つのは独立後の1950年。
この国際比較のなかで、明治日本の「アジア最初の近代立憲国家」としての立ち位置が際立ちます。これは近代化の先進性を示す一方で、日本がこの「先進性」を背景に、後に同じアジア諸国を侵略していく根拠ともなりました。明治憲法体制の評価は、こうした多面的な歴史的文脈のなかで行うべきものです。
戦前と戦後をつなぐ — 二つの第1条
大日本帝国憲法 第1条と、日本国憲法 第1条。この二つを並べて読むと、戦前と戦後の断絶と連続が、もっとも凝縮された形で見えてきます。
| 大日本帝国憲法(1889) | 日本国憲法(1946/1947) | |
|---|---|---|
| 第1条の主語 | 大日本帝国 | 天皇 |
| 天皇の地位 | 統治者 | 象徴 |
| 主権の所在 | 天皇 | 国民 |
| 正統化の根拠 | 万世一系(神話) | 主権の存する国民の総意 |
| 神格化規定(第3条) | 「神聖ニシテ侵スヘカラス」 | なし(人間としての天皇) |
1946年元日の昭和天皇「人間宣言」と、同年11月3日の日本国憲法公布、1947年5月3日の施行——わずか58年の歩みのなかで、日本の憲法体制は、神話に支えられた立憲君主制から、国民主権の象徴天皇制へと、根本的な転換を遂げました。これは世界の憲法史のなかでも、きわめて大きな変化です。
関連する教材
- 五箇条の御誓文(1868年)— 明治のスタート
- 教育勅語(1890年)— 明治憲法と同じ世界観の上位文書
- 日本国憲法・前文(1946年公布 / 1947年施行)— 戦後の出発点
- 古事記「天孫降臨」— 「万世一系」の神話的根拠
- 古事記「神武東征」— 2月11日の起源
1868年(御誓文)→ 1889年(明治憲法)→ 1890年(教育勅語)→ 1947年(日本国憲法)と続く約80年の流れのなかに、本教材を置いて読んでください。「明治の出発点で掲げられた『公論』と『世界に学ぶ』が、なぜ国体観念のなかに包摂され、そして戦後どう再出発したのか」——この問いに、原文に向き合いながら答えを探していく作業が、現代の私たちの歴史学習の中心です。