万葉集の最後の巻、巻第二十には、東国の農民が九州北部の警備にかり出された「防人(さきもり)」とその家族の歌が、まとめて収められています。これは奈良時代の編者・大伴家持が、防人たちの引率に立ち会ったときに集めたものです。古事記の神話的英雄譚(神々の物語)と並べて読むと、同じ8世紀の日本がどれほど重層的な世界だったか、しみじみと伝わってきます。
歌 一 — 妻を思う
韓衣
裾に取りつき
泣く子らを
置きてそ来ぬや
母なしにして
— 万葉集 巻二十 4401 上総国(現在の千葉県中部)の防人、他田舎人大島
【現代語訳】 韓衣の裾にすがりついて泣く子らを、家に置いてきてしまった。母(妻)もいないのに——。
「韓衣(からころも)」とは当時の上等な着物。父が旅立ちの装束を整えるとき、幼い子らがその裾にしがみついて泣いた。それを引きはがして出てきてしまった。家には亡き妻もいない(おそらく妻はすでに病死している)。残されるのは幼い子だけ。父の絶望と、自分にしてやれることがないという無力感が、わずか31文字に凝縮されています。
歌 二 — 父母を思う
父母が
頭かき撫で
幸くあれて
言ひし言葉ぜ
忘れかねつる
— 万葉集 巻二十 4346 駿河国(現在の静岡県中央部)の防人、丈部稲麻呂
【現代語訳】 父も母も、私の頭を撫でて、「無事でいるんだよ」と言ってくれた、あの言葉が、いつまでも忘れられない。
「幸(さき)くあれて」——「幸いであれよ」、つまり「無事でいてくれ」という意味の、ごく素朴な親の言葉です。徒歩で何か月もかかる九州への旅。任期3年。生きて帰れる保証はありません。出発の朝、父母が髪を撫でて「無事でいるんだよ」と言ったあの瞬間の声が、旅の途中でずっと耳に残っている——という歌。具体的なしぐさ(頭を撫でる)が一首の中心にあるのが印象的です。
歌 三 — 妻の歌
我が背なを
筑紫へ遣りて
うつくしみ
帯は解かなな
あやにかも寝も
— 万葉集 巻二十 4422 武蔵国(現在の東京・埼玉あたり)の防人の妻、椋椅部刀自売
【現代語訳】 いとしい夫を筑紫(九州)へ送り出して、(夫を慕う心に)帯も解かないでいよう、なんとも寂しいことに、独り寝することか。
「我が背な(わがせな)」は、女性が夫や恋人を呼ぶときの言葉。「うつくしみ」は「愛おしさのゆえに」。夫の留守に、自分は帯を解かない(=夫以外を寄せ付けない、夫の身に何かあったときに礼を尽くす準備でもある)。これも素朴で、率直な妻の歌です。律令制下の防人制度が、当時の家族をどれほど引き裂いていたかが、これらの歌に滲んでいます。
歌 四 — 母の歌
時々の
花は咲けども
何為そも
母とふ花の
咲き出来ずけむ
— 万葉集 巻二十 4323 遠江国(現在の静岡県西部)の防人、丈部稲麻呂
【現代語訳】 四季のたびに花は咲くけれど、どうして、「母」という花は、もう一度咲き出すことがないのだろうか。
母を失った息子が、旅の途中で四季の花を見ながら詠んだ歌。「母とふ花」——「母という花」。母が亡くなって、もう二度と母に会うことはない。季節の花と、二度と咲かない「母の花」の対比が、この歌の美しさです。古典的にも非常に評価の高い一首で、現代の私たちが読んでも、胸を打ちます。
物語を読み解く ① — 防人制度の地理
なぜ、東国(現在の関東・東海地方)の農民が、九州(大宰府)まで派遣されたのでしょうか。当時の地理的事情を整理すると、その理由が見えてきます。
| 出身国 | 現在の都道府県 | 大宰府までの距離 |
|---|---|---|
| 武蔵国 | 東京・埼玉 | 約1,200 km(徒歩で約2か月) |
| 上総国 | 千葉中部 | 約1,250 km |
| 駿河国 | 静岡中央 | 約1,000 km |
| 遠江国 | 静岡西部 | 約950 km |
東国の農民が派遣された理由は、いくつか考えられます。
- 大和朝廷の支配の確実な地域 東国は、すでに律令制下で戸籍が整備され、徴用しやすかった。
- 九州近郊の住民の負担軽減 大宰府の近郊(豊前・筑前など)の住民は、すでに様々な負担を負っていたため、新たに防人にも徴用すれば過重になる。
- 反乱防止 地元の人々を兵にすると、地元の有力豪族と結びついた反乱のリスクがある。遠隔地の人々ならその心配が少ない。
これは、現代から見ると「過酷な徴用制度」に映りますが、当時の律令国家が、地理的・政治的な合理性のもとに編成した制度でした。
物語を読み解く ② — 古事記と万葉集
古事記(712年成立)と万葉集(759年以降成立)は、同じ8世紀奈良時代に編まれた二つの大書ですが、その性格は対照的です。
| 古事記 | 万葉集 | |
|---|---|---|
| 主人公 | 神々・天皇・英雄 | 天皇から農民まで、あらゆる階層 |
| 目的 | 天皇家の正統化と国家形成史 | あらゆる人々の感情の保存 |
| 視点 | 上から、神話的、構築的 | 下から、率直、収集的 |
| 文体 | 漢字訓読体(中国古典の影響) | 万葉仮名(日本語の音をそのまま表記) |
同じ国家のなかで、なぜこの対照的な二つの大書が生まれたのでしょうか。一つの推測は——大和朝廷は、「天皇支配の正統性」を神話で語る一方で、「あらゆる階層の人々を統合する」ためにこそ、庶民の歌も丁寧に集めて、国家の「文化」のなかに位置づけたかったのではないか、ということです。
これが、後の世まで読み継がれて、国民文学としての万葉集の地位を築いていきます。「奈良時代の日本ほど、庶民の生の声を肉筆に近い形で残した古代社会は、世界的にも珍しい」——これが、現代の文献史学が、万葉集を高く評価する理由です。
歴史の窓 — 大伴家持という編纂者
万葉集の編纂の中心人物は、大伴家持(718–785年頃)とされます。古代の名門軍事氏族「大伴氏」の出身で、自身も歌人としてすぐれ、宮廷の高官として、また防人を引率する兵部少輔(ひょうぶしょうゆう)としても活動しました。
755年(天平勝宝7年)、家持は防人たちの引率に立ち会いました。その際に防人たちから集めた歌が、万葉集巻二十に多数収められたのです。家持自身、率直な感情を歌に詠む歌人だっただけに、防人たちの素朴な歌に深く共鳴したと思われます。
大伴氏は後に、長岡京遷都(784年)に絡んだ政変で失脚し、家持自身も死後に名誉を剥奪されました(後に名誉回復)。その意味で、家持と万葉集には、古代律令貴族の繁栄と没落という、もう一つの物語も重なっています。
関連する古代の物語
- 古事記「神武東征」 — 神話から伝説への移行
- 古事記「天孫降臨」 — 三種の神器の神話
- 古事記「国譲り」 — 出雲統合の神話
- 『日本書紀』(720年)— 古事記と並ぶ国家編纂史書(未収録)
- 『万葉集』天皇・貴族の歌(未収録)— 防人歌との対照
- 『懐風藻』(751年)— 日本最古の漢詩集(未収録)
奈良時代という、日本古代の文化的最盛期。神話・歴史・漢詩・和歌・庶民の声——多様な「ことば」が同時並行的に編まれていきました。本教材は、その多様性のなかの、もっとも「庶民の声」に近い側面を切り取って見せるものです。古事記の神話と並べて読むことで、奈良時代日本の立体的な姿が浮かび上がります。