ペリクレスの葬礼演説 — トゥキディデス『戦史』より

原文(英訳・Crawley 1874)

以下は、リチャード・クローリー(Richard Crawley)による標準的英訳(1874年、Public Domain)からの抜粋です。長い演説全体(『戦史』第二巻第35〜46章)の核心部分を取り出しています。

"Our constitution does not copy the laws of neighbouring states; we are rather a pattern to others than imitators ourselves. Its administration favours the many instead of the few; this is why it is called a democracy. If we look to the laws, they afford equal justice to all in their private differences; if to social standing, advancement in public life falls to reputation for capacity, class considerations not being allowed to interfere with merit; nor again does poverty bar the way, if a man is able to serve the state, he is not hindered by the obscurity of his condition.

"The freedom which we enjoy in our government extends also to our ordinary life. There, far from exercising a jealous surveillance over each other, we do not feel called upon to be angry with our neighbour for doing what he likes…

"We cultivate refinement without extravagance and knowledge without effeminacy; wealth we employ more for use than for show, and place the real disgrace of poverty not in owning to the fact but in declining the struggle against it. Our public men have, besides politics, their private affairs to attend to, and our ordinary citizens, though occupied with the pursuits of industry, are still fair judges of public matters; for, unlike any other nation, regarding him who takes no part in these duties not as unambitious but as useless…

"In short, I say that as a city we are the school of Hellas, while I doubt if the world can produce a man who, where he has only himself to depend upon, is equal to so many emergencies, and graced by so happy a versatility, as the Athenian."

— Thucydides, History of the Peloponnesian War, Book II, ch. 37–41, Richard Crawley 訳 (1874)

日本語訳(標準訳系統)

「われわれの政体は、近隣諸国の制度を模倣するものではない。むしろわれわれは他者の手本となるのであって、他者を模倣するのではない。その運営は少数者の手にではなく多数者の手に委ねられている。このゆえに、われわれの政体は「デモクラチア」(民衆の支配)と呼ばれる。法に目を向けるなら、私的な争いごとにおいてはすべての人に等しい公正が与えられる。社会的な地位を見るなら、公的な役職への登用は能力の評判に従って行われ、階級は能力の判定を妨げてはならない。また、貧しさによって道が閉ざされることもない。国家に奉仕する能力があれば、その者の境遇が低くても妨げにはならない。

「われわれが政治において享受する自由は、日常生活にも及んでいる。そこでは、互いに嫉妬深く監視し合うことなく、隣人が好きなことをしているからといって腹を立てる必要を感じない。…

「われわれは贅沢に陥らずに優雅を養い、軟弱に陥らずに知を育てる。富はわれわれにとって誇示のためのものではなく、用に供するためのものである。貧しさを認めることを恥とは思わず、貧しさと闘わないことを恥とする。われわれの公人は、政治のほかに自分の私生活も担い、生業に勤しむ一般市民もまた、公的な事柄について良き判定者である。他国とは異なり、これらの務めから手を引く者を「野心がない」とは見なさず、「役立たず」と見なすのである。…

「要するに、私は言う。われわれの都市はギリシア(ヘラス)全体の学校である。世界中を探しても、自分一人を頼みとして、これほど多くの非常事態に対応でき、これほど多才で、これほど優雅な人物は、アテナイ人を除いて見つからないだろう。」

— トゥキディデス『戦史』第二巻 第37〜41章より(紀元前 5世紀末成立)

歴史の窓 — ペロポネソス戦争初年の冬

本演説が行われたのは、紀元前431/430年の冬。ペロポネソス戦争(前431〜前404)の最初の戦争年度の終わりに、戦没者の公式な葬礼として行われたものです。アテナイでは毎年、その年の戦死者全員を、北西郊外のケラメイコス墓地に公費で葬る習慣がありました。葬礼の最後に、その年に最も適切とされた人物が選ばれて、追悼演説(epitaphios logos、エピタフィオス・ロゴス)を行うのです。

その年に選ばれたのが、当時のアテナイの実質的な指導者ペリクレスでした。彼は前443年から連続して「将軍 (ストラテゴス)」に再選されていた、アテナイ民主政の象徴的人物。彼は戦没者一人ひとりを称えるのではなく、「彼らが守ろうとしたアテナイという都市はいかなる都市か」を語ることで、追悼に代えました。これが本演説の独創性です。

出来事
前 508クレイステネスの改革 — アテナイ民主政の制度的基礎
前 461エフィアルテス・ペリクレスによる民主政急進化(民衆裁判所の権限拡大)
前 447–432パルテノン神殿建設(ペリクレスの主導)
前 431/430ペロポネソス戦争開戦。本演説(その年の冬)
前 430アテナイの大疫病。市民の 3分の1が死亡
前 429ペリクレス自身も疫病で死去
前 404アテナイ降伏。ペロポネソス戦争終結。スパルタ覇権の確立

本演説は、アテナイ民主政の絶頂期に語られた最後の自画像であり、その直後にアテナイは疫病と長期戦争で崩れ落ちていきます。この「絶頂と崩壊」の対比こそ、トゥキディデスがこの演説を『戦史』に丹念に記録した理由でしょう。

解析 — ペリクレスのアテナイ自己定義

ペリクレスの演説は、後世「民主政の自己定義の原型」となりました。本演説で展開される論点を整理しましょう。

① 政体の名 — デモクラチア (民衆の支配)

多数者の手に委ねられているがゆえに、デモクラチアと呼ばれる」。これが、世界史上はじめての 「民主政の自己定義」 です。ペリクレスは民主政を、君主政や貴族政との対比で「多数者の支配」として定義しました。これは現代の民主主義論にもそのまま流れ込む定義です。

② 法の前の平等

「私的な争いごとにおいてはすべての人に等しい公正が与えられる」。アテナイでは民衆裁判所(500人もしくは1000人の市民から構成される)が、貴族も平民も同じ法で裁きました。これは現代法治国家の起源です。

③ 能力による登用、階級・貧富の不問

貧しさによって道が閉ざされることもない」。役職への登用は能力で決まり、階級や貧富で決まらない、というのがペリクレスの主張です。ただし、これは市民権を持つ成人男性に限られる主張であって、女性・奴隷・メトイコイ(在留外国人)は完全に排除されていた点に注意が必要です。

④ 公私のバランス、政治への市民参加

「われわれの公人は、政治のほかに私生活も担い、生業に勤しむ一般市民もまた、公的な事柄について良き判定者である」。市民は私生活を持ちながら同時に政治に責任を持つ、これが本演説の特徴的な主張です。アテナイ民主政は「直接民主政」で、市民は民会に直接出席し、抽選で五百人評議会の評議員や陪審員になりました。「政治から手を引く者は野心がないのではなく、役立たずだ」という強烈な命題は、市民参加を政治の中心に据えるアテナイの自己理解です。

⑤ 「ヘラスの学校」 — 文化的自負

われわれの都市はギリシア(ヘラス)全体の学校である」。アテナイは、ペリクレス時代にギリシア文化の中心として君臨しました。ソフォクレス、エウリピデス、アリストファネスといった悲喜劇作家、ソクラテス(前 469–399)、フィディアス(前 480頃–430頃、彫刻家)、ポリュクレイトス(彫刻家)—— 世界文化史の頂点が集中して輝いていた都市が、自らを「世界の学校」と自称することの自負と責任を、ペリクレスは語っています。

批判の目 — 排除されていた者たち

本演説は、後世の民主政演説の原型となった輝かしい文書ですが、現代の私たちはこれを批判的に読み直す必要があります。

① 女性は政治から完全に排除されていた

アテナイ民主政は、成人男性自由市民のみの政治でした。女性は 「市民」 ではない。家の中の活動に限定され、政治・教育・公的な議論から完全に排除されていました。ペリクレスは演説の最後で、戦没者の妻たちに向けて短く語りかけますが、その内容は「男たちの間で良きにつけ悪しきにつけ語られないこと、それがあなた方女性の最大の名誉です」というもの。つまり、女性は「語られないこと」が最大の名誉であるべき、というのが当時の倫理でした。これは現代の私たちから見れば衝撃的です。

② 奴隷は人口の3分の1〜半分を占めた

古代アテナイは奴隷制社会でした。家庭内・農地・鉱山で働く奴隷が、推計で人口の3分の1から半分を占めていました。彼らは法的に「人」ではなく「物」として扱われ、政治参加はありえません。アテナイの「自由市民」の優雅な生活は、奴隷たちの不可視の労働に支えられていたのです。

③ メトイコイ(在留外国人)も排除

アテナイには、他のポリスから移住してきた商人・職人 メトイコイ (metoikoi) が数万人住んでいました。彼らはアテナイの経済を支えながら、税を払い、戦時には兵役に就いてもなお、政治参加はできませんでした。市民権は「両親ともアテナイ市民」であることを要求する厳格な基準でした(前 451 年のペリクレス自身の市民権法)。

大切な姿勢 ペリクレスの演説を「西洋民主主義の輝かしい起源」とだけ読むのは、歴史を理想化しすぎます。同時に「結局は奴隷制と男性支配だった」と切り捨てるのも、後世への影響を見落とします。「光と影の両方を見る」のが、現代の歴史学の姿勢です。

トゥキディデスという歴史家

本演説の記録者トゥキディデスは、自身も将軍として戦争に参加した同時代人です。前424年にトラキア戦線で敗戦の責任を問われ追放となり、その後 20年間の亡命中に『戦史』を執筆しました。

トゥキディデスは『戦史』第一巻22章で、自分の方法を明確に述べています:

「私が記録した演説については、その演説者が実際に話した言葉そのものを伝えることは難しかった。それゆえに、私の判断で、その演説者がその場で言うべきだったと思われることを書いた。ただし、私は実際の演説で言われたことの主旨にできるだけ忠実であろうとした。」

つまり、ペリクレスの本演説も、トゥキディデスによる「再構成」であって、ペリクレスが実際に語った言葉そのものではない可能性が高いのです。これは現代の歴史学から見ると、「資料の信頼性」の重要な問題です。

ただし、これはトゥキディデスの欠点ではなく、彼の「歴史を理解する」という独自の方法でもありました。「事実」の列挙ではなく、「事実の意味」の再構成。トゥキディデスは、戦争を通じて人間の本性と権力の機構を解明しようとした、最初期の「政治科学者」です。彼の弟子と言える後世の歴史家・政治家・哲学者には、トーマス・ホッブズ、ニッコロ・マキャヴェッリ、ハンナ・アーレントなどがいます。

後世への影響 — 民主政演説の系譜

ペリクレスの葬礼演説は、後世の民主政の自己定義演説の祖型となりました。とりわけ有名な対応は:

リンカーンのゲティスバーグ演説 (1863)

南北戦争中の1863年11月、リンカーン大統領がペンシルベニア州ゲティスバーグの戦場で行った演説。「人民の、人民による、人民のための政治 (government of the people, by the people, for the people)」 — このフレーズは、ペリクレスの「多数者の手にある政体」を明確に下敷きにしています。

戦後日本国憲法前文 (1946)

「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し…主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する」(→ 日本国憲法前文)。これも「多数者の手にある政体」というペリクレス以来の系譜に立っています。

ハンナ・アーレント『人間の条件』 (1958)

20世紀の政治哲学者ハンナ・アーレントは、本演説を中心に古代アテナイ民主政を分析し、「公的領域 (public sphere)」の概念を構築しました。「政治から手を引く者は役立たずだ」というペリクレスの一句は、現代の「公共性 (public-ness)」論の出発点です。

現代への問いかけ

2,500年前に語られた本演説は、現代の私たちの民主主義を映す鏡です。ペリクレスが理想として語ったこと——能力による登用、貧富による差別の禁止、公私のバランス、市民の政治参加——これらは、現代の民主主義国家がどれくらい実現できているでしょうか。

同時に、ペリクレスの演説には致命的な盲点(女性・奴隷・メトイコイの排除)がありました。私たち現代人は、それらを乗り越える形で民主主義を発展させてきました(女性参政権、奴隷制廃止、市民権の拡大)。しかし、現代もなお新しい形の「排除」(経済的格差、人種差別、移民の政治参加権、未来世代への発言権)が課題として残っています。

大切な姿勢 ペリクレスを「民主主義の英雄」として無批判に称えるのでも、「結局は男性自由民の特権だった」と切り捨てるのでもなく、「2,500年前の理想と限界の両方を、自分たちの民主主義への問いとして受け取る」——これが、本演説を読む現代の意義です。

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古代ギリシアから 2,500 年。ペリクレスの語った理想と限界は、今もなお私たちの民主主義への問いかけです。本教材を起点に、世界史と現代の政治哲学を結びつけて学んでみてください。