王政復古の大号令 — 江戸幕府の終焉

大号令 原文 (慶応 3 年 12 月 9 日 ・ 1868 年 1 月 3 日 発布)

徳川内府とくがわ ないふ従前じゅうぜん御委任ご いにん大政たいせい返上へんじょう将軍しょうぐんしょく辞退じたい両条りょうじょう今般こんぱん断然だんぜん聞食きこしめサレそうろう

そもそも癸丑きちゅう以来いらい未曾有みぞう国難こくなん先帝せんてい頻年ひんねん宸襟しんきんなやセラレせられそうろう御次第ごしだい衆庶しゅうしょところそうろう

これリ、叡慮えいりょけっサセラレ、王政復古おうせい ふっこ国威こくい挽回ばんかい御基おん もといテラセラレそうろうあいだ自今じこん摂関せっかん幕府ばくふなど廃絶はいぜつすなわかり総裁そうさい議定ぎじょう参与さんよ三職さんしょく被置おかれ万機ばんきおん裁断さいだんあそバサレそうろう

現代語訳

徳川 内大臣 (慶喜) が、先 ごろ 朝廷 に 「大政 (政治 の 権限) を 返上 する」 と 申し出 たこと、また 「将軍 職 を 辞退 する」 という 両 件 を、今回、断然、お聞き 入れ に なら れた。

そもそも 嘉永 6 年 (1853 ─ ペリー 来航) 以来 の 未 曾有 の 国難 (黒船 来航・開国 を めぐる 動揺) に より、先帝 (孝明 天皇) は 長年 心 を 痛められて こられた。 これ は、多くの 人 が 知る ところ で ある。

こうした 状況 を 受けて、(明治 天皇 が) ご 決断 を なされ、王政復古、すなわち 天皇 親政 を 復活 さ せ、国威 を 取り戻す 基礎 を お立て に なる こと と なった。
これ に より、これ から は、摂政・関白幕府 など は すべて 廃止 さ れる。
そして 当面、仮 に、総裁・議定・参与 の 三 職 を 設置 し、すべて の 国政 を、ここ で 裁断 さ れる こと と なった。

解説 ─ 「たった 一夜」 の クーデター

慶応 3 年 12 月 9 日 (新暦 1868 年 1 月 3 日)、夜 明け 前。
京都 御所 の 周辺 を、薩摩・長州・土佐・芸州・尾張・越前 ── 六 藩 の 兵 が ひそかに 占拠 した。
そして 夜明け と 同時 に、岩倉具視 ら 公家 が 朝廷 内 で 一気に 動き、上記 の 大号令 を 宣言 さ せた。

これ は、合法 的 な 政治 過程 を 装い ながら、実 体 と して は 軍事 占拠 を 伴う クーデター で あった。
260 年 続いた 江戸 幕府 の 終焉 は、こうして たった 一 晩 で 宣言 された の で ある。

大政 奉還 → 王政復古 の 流れ

わずか 2 ヶ月 の 間 に、何 が 起こった の か。

日付出来事意味
1867年10月14日徳川慶喜 が 朝廷 に 大政 奉還 を 申請政治 権限 の 形式 的 返上 (徳川 領地 は そのまま)
1867年10月15日朝廷 が 大政 奉還 を 受諾名目 上、江戸 幕府 の 政治 機能 が 停止
1867年12月9日王政復古 の 大号令 発布幕府・摂関 を 完全 廃止、新政府 樹立
1867年12月9日 夜小御所 会議慶喜 に 「辞官 納地」 を 決議 (官職 と 領地 の 返上)
1868年1月3日鳥羽・伏見 の 戦い 開始戊辰 戦争 の 始まり

慶喜 が 大政 奉還 で 「政治 から 退きます」 と 言った だけ で は、徳川 家 は 巨大 な 領地 と 軍事 力 を 保持 した まま。
これ で は 「名 ばかり の 維新」 で 終わる ─ そう 判断 した 岩倉具視・西郷隆盛・大久保利通 たち は、わずか 2 ヶ月 後、徳川 を 完全 に 政治 体制 から 排除 する 王政復古 を 決行 した の で ある。

「三 職」 ─ 新しい 政治 機構

大号令 で は、廃止 さ れた もの と、新設 された もの が ある。

廃止新設
摂政・関白 (公家 政治 の 頂点)総裁 (議長 ・ 有栖川宮 熾仁 親王)
幕府・将軍 職 (武家 政治 の 頂点)議定 (公家・諸侯 から 10 名)
京都 守護職・京都 所司代参与 (実務 担当・薩摩 長州 土佐 など から)

ここで 注目 す べき は、新設 された 「三 職」 が、公家・諸侯・下級 武士 を 横断 した 政府 だった こと だ。
特 に 「参与」 に は、西郷 隆盛・大久保 利通・木戸 孝允 など の 下級 武士 が 抜擢 された。 これ が、後 の 明治 政府 の 中核 と なる。

小御所 会議 と 戊辰 戦争 の 火種

大号令 発布 当日 の 夜、京都 御所 の 小御所 で 緊急 会議 が 開かれた。
出席 した の は、新 「議定」 ・ 「参与」 ら 約 20 名。

議題 は ─ 「徳川慶喜 を どう 処分 する か」

強硬 派 (岩倉・大久保・西郷) ─「将軍 職 だけ で なく、官職 (内大臣) も 辞退 さ せ、領地 も 返上 さ せ よ」
穏健 派 (山内 容堂・松平 春嶽) ─ 「慶喜 も 議定 に 加える べき で ある。 そもそも 彼 抜き で 新 政府 は 不安定 だ」

激論 の 末、岩倉 が 「迷う ような 公家 は 御簾 (みす) の 外 で 切る」 と すごみ、強硬 派 の 主張 が 通った。
慶喜 は 「辞官 納地」 (官職 と 領地 の 返上) を 命じられた。

これ が、約 一 ヶ月 後 の 鳥羽・伏見 の 戦い (1868年1月3日 ─ 偶然 にも 王政復古 の 新暦 と 同日!) に つながる。
戊辰 戦争 (1868–1869) は 約 一年 半 続き、新 政府 軍 が 旧 幕府 軍 を 各地 で 撃破。1869 年 5 月 の 五稜郭 (函館) の 戦い で、ついに 旧 幕府 派 の 抵抗 は 終わった。

「復古」 か 「革命」 か

「王政復古」 と いう 名称 は、興味深い。

表 看板 は 「復古」 ─ 天皇 親政 が 復活 する。
中身 は しかし、まったく 新しい 政治 体制 ─ 西洋 を モデル と した 近代 国民 国家 の 樹立。

この 「復古 を 装った 革命」 と いう 戦略 が、明治 維新 を 比較 的 平和 的 に 進める 鍵 と なった。
「私 たち は 新しい 思想 を 押し付けて いる の で は ない。古 の 天皇 親政 に 戻る だけ だ」 ── そう 主張 する こと で、保守 派 の 反発 を 和らげた の で ある。

これ は、フランス 革命 (1789) や ロシア 革命 (1917) の よう に 「新しい 体制」 を 真正面 から 打ち出した 革命 と は 対照 的 な、日本 独特 の 政治 手法 と 言える。

三 部 作 と して の 読み

本サイト の kotorekishi1 で は、明治 維新 の 三 大 政治 文書 が 揃った。

  1. 王政復古 の 大号令 (1867 年 12 月) ─ 江戸 幕府 終焉 の 宣言
  2. 五箇条 の 御誓文 (1868 年 3 月) ─ 新 政府 の 基本 方針
  3. 廃藩置県 の 詔 (1871 年 7 月) ─ 中央 集権 国家 の 確立

わずか 4 年 弱 の 間 に、260 年 続いた 江戸 体制 が 完全 に 解体 され、近代 国民 国家 の 骨格 が 形成 された。
世界 史 上 で も きわめて 急速 な 構造 変革 で あった。
そして その 第一 歩 が、慶応 3 年 12 月 9 日 の 早朝、京都 御所 で 響いた 一 句 ── 「王政復古、国威 挽回 ノ 御 基 立 テラセラレ 候」 だった の で ある。