一 メロスの激怒
メロスは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らして来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里離れたこのシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、花婿として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。
まず、その品々を買い集め、それから都の大通りをぶらぶら歩いた。メロスには竹馬の友があった。セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、石工をしている。その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、訪ねていくのが楽しみである。歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。ひっそりしている。もう日も落ちて、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、だんだん不安になって来た。
二 王との対決
メロスは、王の前に引き出された。
「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」暴君ディオニスは静かに、けれども威厳をもって問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。
「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。
「おまえがか?」王は、憫笑した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って反駁した。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑っておられる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて呟き、ほっと溜息をついた。「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
メロスは死刑を覚悟で、「三日のあいだ、私を放してください」と願い出る。妹の結婚式を済ませてから、必ず戻ると言うのだ。王は冷笑した。「逃げて来ないのに決まっている。」メロスは竹馬の友・セリヌンティウスを身代わりの人質に立てる。もし三日めの日没までに戻らなければ、友を殺してかまわない、と。
王は、ひとり、心の中で呟く。「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
三 走るメロス
メロスは、約束を果たすために、わが村へ走り帰り、妹の結婚式を済ませた。すぐに、王城を目指して引き返す。途中、川の濫に出会い、橋は流されている。それでも泳いで渡る。山賊に襲われ、それを倒す。炎天の中をひたすら走り、ついに力尽きてうずくまる。
もう、どうでもいい、という気持ちが、メロスの胸を襲った。これほど苦しんで、それでも間に合わぬのなら——。疲労困憊の極みで、自分は人を信じる事ができなかったのではないか。すべてが、馬鹿らしくなる。
その時、ふと、清水が湧き出ている音が聞こえた。メロスは、口をつけて飲んだ。ふと、足元から気力がみなぎってくる。メロスは、呟く。
——私は信じられている。私は信じられている。先刻の、あの悪魔のささやきは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事ができるぞ。
メロスは、また走り出した。日は西に大きく傾いた。風が、彼の汗を吹きさます。夕陽を背負って走る。
四 最後の場面
城門にたどりついたのは、まさに日の沈もうとする瞬間であった。メロスは、群衆をかきわけ、磔台に立てられたセリヌンティウスのもとへ駆け上がった。
「セリヌンティウス。」メロスは目に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。私は、途中で一度、悪い夢を見た。君が若し私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で、うなずき、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。殴ってから優しく微笑み、
「メロス、私を殴れ。同じくらいの音で私の頬を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に唸りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。
「ありがとう、友よ。」二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、すすり泣きの声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後で二人の様を、まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。
「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」
どっと群衆の間に、歓声が起った。「万歳、王様万歳。」
※ このページについて
『走れメロス』は太宰治が昭和15年(1940年)に発表した短編小説です。原作はもう少し長く、メロスが妹の結婚を急がせる場面、走る途中で挫けて「もういいのだ。私は負けたのだ」と呟く長い独白、夕陽の中で歌うように走る場面などが詳しく描かれます。このページは中学生向けに核となる場面を抜粋・要約したもので、太宰の原文をぜひ青空文庫の全文で読み通してみてください。「青空文庫『走れメロス』」から入手できます。