原文(第一段 初冠)
むかし、男、初冠して、平城の京、春日の里に、知るよしして、狩りに往にけり。その里に、いとなまめいたる女はらから住みけり。この男かいまみてけり。思ほえず、古里にいとはしたなくてありければ、心地まどひにけり。男の着たりける狩衣の裾を切りて、歌を書きてやる。その男、信夫摺りの狩衣をなむ着たりける。
春日野の若紫のすり衣しのぶの乱れ限り知られず
となむおひつきて言ひやりける。ついでおもしろきことともや思ひけむ。
みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
といふ歌の心ばへなり。むかし人は、かくいちはやきみやびをなむしける。
現代語訳
むかし、ある男が元服を済ませて、平城の都、春日の里に縁故があったので、狩りに出かけて行った。その里には、たいへんみずみずしく美しい姉妹が住んでいた。男はその姉妹を垣間見てしまった。思いがけず、古びた旧都に不釣り合いなほど美しいので、男の心はすっかり乱れてしまった。彼は自分の着ていた狩衣の裾を切って、そこに歌を書きつけて贈った。その男は信夫摺りの狩衣を着ていたのだ。
春日野の若紫のすり衣
しのぶの乱れ限り知られず
(春日野の若紫のような美しいあなたを見て、私の心は、この信夫摺りの模様のように乱れて、その果てが知られないほどです)
と、即座に詠んで贈ったのである。折しもおもしろい趣向だと自分でも思ったのだろう。
みちのくのしのぶもぢずり
誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに
(みちのくの信夫摺りの模様のように、私の心は乱れはじめた。誰のせいかと言えば、私のせいではない——あなたのせいなのだ)
という、よく知られた古い歌の心を踏まえているのだ。むかしの人は、こんなふうに、すばやく機転のきいた雅な振る舞いをしたのである。
解説
『伊勢物語』は、平安時代前期(10世紀前半)に成立したとされる、日本最古の歌物語です。「歌物語」とは、和歌を中心に据え、その歌が詠まれた状況や前後の経緯を散文で説明していく作品ジャンルで、『大和物語』『平中物語』などと並ぶ平安期の代表的な形式です。
主人公の「男」は明示されませんが、伝統的に在原業平(ありわらのなりひら、825-880)がモデルとされてきました。業平は平安時代を代表する歌人で、『古今和歌集』にも多くの歌を残し、後世「みやび」の体現者として愛されました。
第一段の「初冠」は、その業平像を象徴する一段です。注目すべき点は二つ。一つは、男が美しい姉妹を「垣間見」て即座に動揺し、即興で歌を詠みかけるという応答の速さ。もう一つは、その歌が無名のオリジナルではなく、すでに知られた『古今集』の歌の本歌取り(引用と変奏)になっているという知性。この二つが合わさったところに、「いちはやきみやび」の真髄があります。
結びの一文「むかし人は、かくいちはやきみやびをなむしける」は、語り手が「むかし人」のしぐさを愛おしむまなざしで物語を閉じる、伊勢物語全体に通底する語り口でもあります。