原文 (古典ギリシャ語の冒頭)
Μῆνιν ἄειδε, θεά, Πηληϊάδεω Ἀχιλῆος
οὐλομένην, ἣ μυρί᾿ Ἀχαιοῖς ἄλγε᾿ ἔθηκε
土井晩翠 訳 (1940)
歌へ女神よ、ペレースの子アキレウスの怒りを、
呪はしき怒りを、無数のアカイア族に苦難を運びし者を、
幾多の勇ましき霊魂を冥府に送りこめ、
己を犬と飛鳥とに食らはせし怒りを。
現代語訳・要点
女神よ、歌いたまえ。
ペレウスの子・アキレウスの呪わしい怒りを。
それは数えきれぬ苦難をアカイア軍 (ギリシャ軍) にもたらし、
多くの勇ましい英霊を冥界へ送り、
死体を犬や鳥に食わせた、その怒りを。
「歌え女神よ」 ―― 叙事詩の伝統
ホメロス叙事詩は、必ず「女神 (ミューズ Muse) よ、歌いたまえ」という 召喚 (invocation) で始まります。詩人自身が歌うのではなく、芸術の女神の力を 借りて、その口を通じて歌が流れ出す ―― という伝統。
これは古代ギリシャの「霊感 (インスピレーション)」観の表現でもあります。 真に偉大な詩は、人間個人の意志ではなく、神的なものが人間を通じて現れる、と。
この伝統は、後世ヨーロッパでも継承されました。ヴェルギリウス『アエネーイス』 (「武器と男を歌う」)、ミルトン『失楽園』(「歌え、天上の女神よ」) など。
「アキレウスの怒り」という主題
『イリアス』全 24 巻 (約 15,000 行) は、たった一つの主題から展開します ―― アキレウスの怒り。
ギリシャ軍の総大将アガメムノンが、アキレウスから戦利品の女奴隷を奪った。 怒ったアキレウスは戦場から退き、ギリシャ軍は劣勢に追い込まれる。 親友パトロクロスが戦死し、アキレウスの怒りはトロイア王子ヘクトル に向かう ―― という流れ。
たった一つの感情が、これほど長大な叙事詩を駆動する。これは、後の 『平家物語』が「無常」一つで全 12 巻を貫いたのと、構造的に似ています。
土井晩翠の漢文調翻訳
土井晩翠 (1871-1952) は、明治末から昭和にかけての浪漫派詩人。 代表作「荒城の月」(作詞、滝廉太郎作曲) で有名ですが、もう一つの大事業が、 30 年以上の歳月をかけたホメロス全訳でした。
彼の選んだ文体は、漢文調 ―― 漢字・漢語を多用する重厚な日本語。 原文 (古典ギリシャ語) は素朴な口承韻律 (六歩格 hexameter) で書かれていますが、 晩翠はそれを「古代の偉大な詩」として、日本人にとって「格調高さ」を感じられる 漢文調に翻訳しました。
これは「等価翻訳」(equivalent translation) の発想 ―― 原文の効果を 別言語で再現するために、原文と異なる文体を選ぶ ―― の代表例とも言えます。