御坂峠にて
富士の山頂は、思ひのほか、低い。あの頂上に立つたら、たいてい、ふしぎに思はぬか。私は、信州の安曇野で生れた人と、富士について語り合うたとき、富士の高さも、その姿のうつくしさも、すべて期待を裏切られた、ときいた。富士は、噂のとほりの裾野を持つて、すらつと真直ぐに、青空を背にして立つて居るのを見たとき、なるほど俗に云ふ「立派」とは、かういふものかも知れぬ、と素直に首肯頷けるのである。あんまり立派すぎて、つまらないとさへ私には思はれた。
あの富士は、もう少し背が高くなければいけないのだ。あの裾の勾配の角度、あの頂上の狭さ、あれくらゐの高さでは、いけない。
井伏鱒二と月見草
昭和十三年の初秋、井伏鱒二氏の御厚意により、私は、その天下茶屋の二階に滞在することに決つた。それから、まる二箇月、私は、御坂峠の頂上で、富士山と、まともに向き合つて、暮した。
井伏氏は、その初秋、御坂の私を訪ねてくれた。井伏氏は娘さんを連れての旅であつた。十三、四歳と思はれた。頬に紅潮が走り、おぼこい娘さんで、井伏氏とふたり、御坂峠の頂上から富士山を眺め、何度も何度も歓声をあげてゐた。井伏氏も、めづらしさうに、富士を眺めてゐた。私は、その時、思ふた。富士には、月見草がよく似合ふ、と。
御坂峠頂上の茶屋から、バスにのつて、三十分ほどゆられて、河口湖畔に着いた時、ふと、私は思ひ出した。御坂峠の頂上で、富士を見ながら、井伏氏と娘さんが、いいなあ、いいなあ、とおつしやつてゐた、その時、私の眼に、月見草が映つた。月光のやうな黄いろの月見草が一輪、富士の裾の方に、いまや高くひらいてゐた。富士には、月見草がよく似合ふ。
峠の老婆
その翌日、また、別の場面が、私の瞼に焼きついた。御坂峠頂上の茶屋に、たうたう、私のところを訪ねて来てくれた中央区辺りの老婆がゐた。三国峠を越え、御坂峠を越え、ずいぶん、難行であつたらしく、息を切らせて、店の縁台に腰をおろし、ぼんやり、富士を眺めてゐる。私も、その辺の縁台に腰かけて、お茶を飲んでゐた。
老婆も、しばらくして、それと気がついた様子で、私のはうに眼を向け、しかし、なんにも、ちつとも、見えてゐないのだ。あんなに、まじまじと、富士の方を眺めてゐながら、なんにも、見えてゐないのだ。富士山は、立派には、見えてゐないのだ。遥か、その向うに、遠く、なにか、別の物を、しんから望み見てゐる。
私は、月見草を思ひ出した。あの老婆もまた、月見草と富士の取り合せに似てゐる。富士は、立派すぎる。あんな、ばかに通俗的な、まるで風呂屋のペンキ画みたいな富士山には、月見草が一番似合ふ、と私は、ひとり呟き、峠の老婆を、しんから尊敬した。
結び
あすは、東京。あすからは、また、私の、もとの生活が始まる。あの、なまけ者の、しかも、いやらしく、ややこしい、生活が、始まる。私は、富士に向つて、おう、と、ひとこと、礼を述べた。さようなら、富士山。さようなら、御坂峠。ありがたう。
※ このページについて
『富嶽百景』は太宰治が昭和14年(1939)2〜3月の『文体』に発表した中編。御坂峠の天下茶屋に昭和13年9月13日から11月3日まで滞在した実体験をもとにしています。このページは高校2年生向けに核となる三つの場面(御坂峠の到着 / 井伏氏と月見草 / 峠の老婆)を抜粋・要約したもの。原文には、修学旅行の生徒たちの場面、富士の素描を頼まれて辟易する場面、近所の遊女たちと富士を眺める場面など、多くの挿話が含まれます。ぜひ 青空文庫の全文 で読み通してみてください。